腎臓売買事件

腎臓売買事件 昭和63年(1988年)

 昭和63年6月28日、日本の腎不全患者が、フィリピンで腎臓移植を受けていたことがマニラの日本大使館の調べで判明した。

 日本人が海外で腎臓移植を受けていることは、以前からうわさされていたが、このようなヤミ移植がついに明らかになったのである。腎移植を受けたのは岐阜県の20代の男性で、腎臓を提供したのは血縁関係のない日本人男性(37)であった。さらに大阪市のクリーニング店経営者(51)が、フィリピンの囚人から腎臓の提供を受け、移植していたこともわかった。この腎臓売買事件が衝撃的だったのは、人間の臓器が売買の対象になっていたことである。この報道により「腎臓ビジネス」の実態が一気に表面化した。さらにフィリピンの囚人だけでなく、スラム街に住む貧しい人たちからも、日本人が腎臓を買っていたことが明らかになった。

 腎臓売買仲介業者は、日本で腎臓移植を必要としている腎不全患者を集めていた。これは意外に簡単で、血液透析を行っている病院の周辺の電柱などに、「腎臓移植ができます」の張り紙を張ることで患者を集めることができた。透析患者は週に3回、病院で数時間の血液透析を受け、患者の多くは腎移植を望んでいたが日本では腎臓の提供者が圧倒的に少なかった。

 仲介業者は移植希望者を集めると、フィリピンで現地の人を雇い、腎臓提供者を探すことになる。手術はフィリピン腎臓センターなどの一流病院で行われていた。フィリピンの医療水準は高いので、医学や医療面での心配はなかった。

 仲介業者は日本人向けに「腎臓移植パックツアー」のパンフレットをつくっていて、そこには「腎臓売買は10年以上前から行っていて、20例以上の実績がある」と書かれていた。また手術代約370万円、免疫抑制剤約100万円、入院費約90万円、そして腎臓1つの値段が約28万円となっていた。

 この移植パックツアーの総額はおよそ1800万円で、手術代金が800万円、1000万円が渡航、宿泊費とされていたが、実際はその多くが斡旋業者に渡っていた。つまり腎臓斡旋業は腎移植の名を借りた「腎臓ビジネス」であった。それを裏付けるように、腎移植斡旋業者は千葉や京都など日本数カ所にあった。

 日本のマスコミがフィリピンでの腎臓売買を取り上げると、フィリピン国内でも腎臓ビジネスが問題になった。フィリピンの医師が、フィリピン上院公聴会で日本人相手に移植手術を行っていると証言して実態が明らかになった。地元の報道機関は、「腎臓を売り物として、日本人が購入」と報道した。

 腎臓を売ったフィリピン人には、報酬として約28万円が支払われていた。この金額はフィリピン人の平均年収の2倍以上で、貧困に苦しむ人たちにとって腎臓売買が収入源となっていた。腎臓売買に罪の意識はなく、腎不全患者を助けることで自分の生活も楽になると安易に受け止められていた。フィリピンでは腎臓移植に関する法律が整備されていなかったのである。

 フィリピンの刑務所でも腎臓売買が頻繁に行われていた。死刑囚や無期懲役囚を対象に、刑務所が腎臓提供者を募集していたのだった。希望者は事前に血液型やリンパ球の型が調べられ、移植リストが作られていた。

 服役囚たちは臓器を売るドナー予備群として、移植患者が見つかると移植リストから最適の者が選ばれるシステムになっていた。マニラ郊外のモンテンルパ刑務所では、30人以上の囚人がすでに腎臓を提供していた。死刑囚の腎臓提供は当初は慈善的なものであったが、移植の礼金を家族に送金するようになり、また囚人は腎臓提供で減刑を期待するようになった。

 フィリピンの刑務所では腎臓売買が頻繁に行われ、腎移植が組織的ビジネスになっていた。相手は日本人だけでなく、フィリピン人の金持ち、外国人であった。今回の事件はフィリピンで大きく取り上げられため、フィリピン政府は国内の臓器移植を一時停止する緊急措置をとった。このことで腎臓売買は一時的に決着がついた。

 このような腎臓売買事件の背景には、日本では腎臓移植を希望してもそれを期待できない事情があった。昭和50年ごろから日本で腎移植が普及したが、腎臓を提供する善意の人が少なかったのである。その一方では、いくら金を出しても腎臓を手に入れたいと願う患者が多くいた。腎移植をすれば、週3回の血液透析から解放されるので、腎臓を買いたい患者の気持ちは十分に理解できる。

 当時の日本では、血液透析患者は約16万人で、その4割近い患者が腎臓移植を希望していた。しかし腎移植が受けられるのはきわめてまれで、日本の腎移植件数は年間300〜500人にすぎず、しかもその約75%が親などの血縁者による提供であった。日本では善意による腎臓提供者が圧倒的に少なく、臓器の売買はもちろん禁止されている。日本の医療は保険診療なのでヤミの腎移植はありえないのである。

 日本で初めて腎臓移植が施行されて以来、臓器の売買は臓器移植法により禁止されていた。一方、腎移植を必要とする患者は、糖尿病の増加などから急増し、人工透析を受ける患者はこの10年で倍増している。透析患者が増えているが、血縁者からの生体腎移植件数はこの10年間ほとんど変化していない。善意者からの死体腎移植は年々減少し、平成元年には261件であったが、平成5年は159件、平成6年は149件に落ち込んでいる。

 死体腎臓移植は脳死とは無関係で、本人の臓器提供者の意思表示がなくても、心停止後であれば家族の承諾だけで移植ができる。しかしそれでも提供者は少ないのである。死体腎移植が増えないのは、腎移植が脳死とは関係のないことを知らないこと、医師が腎移植に対してやる気を失っていることが考えられる。

 平成9年に、「腎臓ビジネス」が再び問題になった。しばらく鳴りを潜めていた腎臓ビジネスが、深く潜伏していたのであった。そのきっかけは、海外で腎臓移植を希望する日本人患者に、東大医学部の講師が現地の医師に紹介状を書き、斡旋業者から約230万円の謝礼をもらっていたのが発覚したことであった。臓器売買と知りながら、手を貸していた東大医学部の講師は、腎臓ビジネスに手を貸していると非難された。腎臓ビジネスはフィリピンから、さらに貧しい国に場所を変え、インドやバングラデシュなどで行われていた。

 フィリピンでの腎臓売買が禁止されて以降、海外での腎臓移植は地下に潜行して行われるようになった。現在、どれだけの日本人が海外で移植を受けているかは不明である。平成10年にはタイで腎臓移植を受けた日本人が、帰国後に急死する事件が起きている。また斡旋業者が患者から数千万の金を集めて姿をくらます事件も起きている。

 平成11年、大阪府警は大阪市内の腎臓移植斡旋業「KSネットワーク」代表の安楽克義(41)を逮捕した。安楽克義は腎不全患者5人から移植費名目で計約6300万円を預かっていたが、そのまま事務所を閉鎖して姿をくらましたのである。これは安楽克義の計画的犯罪で、腎臓病患者から金をだまし取るため、移植手術を仲介するダイレクトメールを全国に郵送して希望者を募集していた。ダイレクトメールには、フィリピン医師との間で臓器提供者確保のための契約を結んでいると宣伝していた。安楽克義は「金を預かったのは事実であるが、手術を斡旋するつもりだった」と犯意を否認したが、患者は「最初から移植を仲介するつもりがないのに、金をだまし取られた」と訴えた。

 この事件の1年前の平成9年には、東京都文京区の医療器具販売会社のオーナーと社長など幹部社員ら計6人が、腎臓移植に絡む詐欺容疑で患者から訴えられている。会社オーナーと社長らは、患者4人から腎臓移植を名目に契約金約4800万円を受け取りながら、手術は行わず、金を戻さなかったことから患者が詐欺容疑で告訴。告訴したのは1000〜1490万円を支払った34〜71歳の患者4人であった。同社は、オーナーがインドで移植手術を受けたことから、海外での腎移植の斡旋に乗り出していた。そして海外で腎移植を希望する患者と契約を結び、1人は実際にバングラデシュで移植手術を受けていたた。訴えた患者は「弱みにつけ込んだ、許せない行為」としているが、臓器移植法で臓器売買は禁じられていて、患者団体は「患者側もルールを守ってほしい」とコメントを出した。

 日本での臓器移植が停滞したまま、海外での移植を希望する患者たちが後を絶たない。平成12年には、プロレスラーのジャンボ鶴田がマニラの病院で肝臓移植を受け、大量出血で死亡している。現在でも外国で臓器移植を行う例が多く、患者の弱みにつけ込んだ事件やトラブルが少なくない。

 平成18年3月、厚生労働省の研究班(班長=小林英司・自治医科大教授)は、アジアで臓器移植手術を受ける日本人が増えていると公表。その内訳は心臓移植が103人(うち18人が死亡)、腎臓移植は151人で、地域としては中国が34施設で最も多く、フィリピンが16施設、米国が14施設などであった。肝臓移植は12カ国199人が受け手おり、米国、オーストラリアが15施設、中国が12施設であった。

 この調査は、帰国後に国内の医療機関で治療を受けている患者数を集計したもので、現在でも日本人の臓器移植は海外で行われている。渡航移植は、国内での臓器提供者不足が背景にあり、中国を中心にアジアでは、臓器の売買や死刑囚からの提供がまだまだ行われている。