脳死訴訟

脳死訴訟 昭和60年(1985年)

 和田寿朗教授(札幌医科大)によって、日本初の心臓移植が行われたのは昭和43年のことであった。当初のマスコミは心臓移植を称賛する記事を連日報道し、日本中が心臓移植の成功に沸いていた。しかし移植を受けた患者が死亡すると、マスコミの論調は一転して疑惑に変わり、和田教授を批判する報道になった。

 「心臓移植を受けた患者は、移植を必要とするほど悪くなかった」、「心臓を提供した青年は、死亡していない状態で心臓を摘出された」この疑惑が持ち上がったのである。和田寿朗教授は殺人罪で告発され、結局は不起訴処分になったが、和田教授の心臓移植は日本の臓器移植に大きな後遺症を残した。告発以降、日本の心臓移植は行われずにいた。

 臓器移植を議論する場合、最も大きな問題は、「何をもって人間の死」とするかである。臓器移植に「死の判定の合意」が必要なのは、人間の死には心臓死と脳死の2種類の死があったからで、この死の判定基準が未解決のままになっていた。

 心臓移植が可能なのは「脳死を人の死と認めた場合」だけであった。心臓移植には動いている心臓が必要なので、心臓死を人間の死とした場合、移植のための心臓摘出は殺人行為となった。昭和58年9月、厚生省は「脳死に関する研究班」を発足させたが、脳死判定基準をまとめることはできなかった。結局、移植をめぐる法の整備はなされず、日本の臓器移植は停滞した。

 この脳死判定基準について検討がなされている最中の、昭和59年9月25日、筑波大の岩崎洋治教授がわが国初の膵・腎同時移植を行った。岩崎教授は「脳死に関する研究班」の班員で、脳死の合意が未解決であることを承知の上での臓器移植だった。臓器移植には、多くの人々が納得する死の定義が必要であるが、岩崎教授はそれを知りながらの確信犯であった。

 臓器を提供したのは、48歳の主婦であった。主婦は過去に2回の脳出血を起こし入退院を繰り返していた。当日は、検査のために筑波大病院を受診する予定だったが、途中で発作を起こし緊急入院となった。病院に運ばれた時、主婦は再発性の脳出血により昏睡状態だった。

 主婦は、かねてから臓器を提供したいと夫に話しており、この家族の話を受けて臓器移植の準備が行われた。筑波大・岩崎教授のグループは、入院翌日に脳死と判定。主婦の膵臓と1つの腎臓が29歳の男性に、もう1つの腎臓が38歳の男性に、さらに2人の患者に角膜が移植された。

 移植から2カ月後の11月24日、岩崎教授は日本移植学会でこの臓器移植について発表を行ったが、この臓器移植に東大グループが異議を唱えた。女性患者が脳死の状態で臓器提供の手術をしたこと、さらに患者が精神科に通院していることから臓器提供の同意の有効性を問題にしたのだった。また臓器提供を受けた患者が、本当に移植が必要だったかどうかも質問された。

 昭和60年2月12日、東大病院の医師らで組織する「患者の権利検討委員会(東大PRC)」や「脳死立法反対全国署名活動委員会」らのグループが、筑波大の岩崎洋治教授を殺人罪で東京地検に告発した。「脳死の判定が正しくても、心臓が拍動している患者から心臓を摘出し患者を死に至らしめた」としての告発だった。

 東大PRCは、臓器移植に脳死判定を認めないグループで、脳死状態で臓器を摘出したのは殺人罪に当たり、摘出の時点で死亡していたとしても、死体損壊罪に当たるとした。

 世界のほとんどの国が「脳死を人の死」としているが、日本ではまだ社会的合意はなされていなかった。脳死の段階では、心臓はまだ動いているので殺人の問題が出てくる。「死の判定基準」の合意がないまま臓器移植を行ったことが、この告発を招くことになった。しかし岩崎教授は一向に進まない日本の臓器移植に一石を投じたかったのである。

 岩崎教授は告発を受けたが、厚生省の「脳死に関する研究班」の委員を辞任しただけだった。この事件は告発されたが、裁判には至らなかった。臓器移植が行われたこと、また移植を行った医師が告発されたのは、和田教授以来17年ぶりのことであった。

 当時、移植において脳死判定が確立されていた欧米では、臓器移植は治療法の1つとして定着していた。また、臓器移植における拒否反応を防止する薬剤の開発が進み、臓器移植の成功率が急速に高まっていた。しかし日本では脳死の合意すらできず、臓器移植の議論はあったが、「脳死・心臓死」については17年も合意できずにいた。

 「脳死・心臓死」の議論は科学的な理論的対立ではなく、文化的、宗教観、人生観を含んだ感情的対立だった。そのため話し合いで結論など出るものではなかった。議論そのものが「水と油」で、両者が歩み寄ることは不可能に近いものであった。岩崎教授は、臓器移植に積極的な姿勢を示したが、臓器移植はこの1例だけで終わってしまった。