狂牛病

狂牛病 昭和63年(1988年)

 200年以上前から、羊の中枢神経系の疾患「スクレイピー」が知られていた。大正9年、ヒトにもスクレイピーと同じ病気があることが分かり、クロイツフェルト・ヤコブ病(CJD)と命名された。CJDとは、この疾患を最初に報告したドイツの2人の病理学者の名前に由来している。

 この疾患はタンパク質の一種であるプリオンが原因であった。つまりプリオンによる羊の病気がスクレイピーで、ヒトの病気がCJD、そして牛の病気が狂牛病である。このプリオンによる疾患の病態はほぼ共通していて、脳がスポンジ状になり、運動失調や痴呆などの症状を呈し、発症から1年以内に死亡することである。

 ヒトはスクレイピーが知られるようになる200年以上前から羊の肉を食べていたが、CJDになったヒトはいない。また羊を食べる国、食べない国でもCJDの発生率は同じで、どの国でも100万人に1人の頻度で自然に発生する。このことからプリオンを原因とする疾患は、羊と羊、牛と牛、ヒトとヒトならば感染するが、種を超えて感染することはないとされていた。

 プリオンはもともと健康な体内にあるが、病気を引き起こすのは、正常プリオンが立体構造の違う異常プリオンに変化するためである。体内に入った異常プリオンが、正常なプリオンを異常プリオンに変え、脳の神経組織に蓄積して細胞を破壊するのである。

 この異常プリオンは、通常の加熱では不活化されず、ホルマリンでも分解されない。さらに、発症すれば治療法はなく、死を待つだけであった。

 昭和61年、英国で原因不明のけいれん、歩行困難、異常行動を来して死亡する牛が発見され、牛がよろける様子を見た農民がMad Cow Diseaseと呼んだので、日本ではそれを直訳して「狂牛病」と名付けられた。狂牛病の牛の脳を顕微鏡で見ると、小さな空洞がたくさんあり、脳組織がスポンジ状になっていた。そのため狂牛病の正式名は牛海綿状脳症(BSE: Bovine Spongiform Encephalopathy)となっている。

 狂牛病は英国に多く(狂牛病全体の99%以上)、平成10年までに狂牛病に罹患した牛は約17万頭とされている。そのほかの欧州諸国でも狂牛病は見つかっているが、英国に比べればはるかに低い頻度であった。

 英国では羊の飼育頭数が牛の約2倍で、昭和50年頃から羊の肉を牛の餌として与えていた。そのためスクレイピーに罹患した羊の肉を牛が食べ、狂牛病を発生させたとする説が有力である。さらに潜伏期間中の狂牛病の牛の肉も、牛の飼料として加工され、急速に狂牛病の感染が広まったとされている。

 当初、英国政府は「牛の狂牛病はヒトへ感染しない」としていた。羊のスクレイピーがヒトに感染しないように、種の壁によってヒトが牛肉を食べてもCJDにはならないとしていた。そのため、昭和61年に英国で狂牛病が見つかっても厳しい対策は取らなかった。もちろん狂牛病を発症した牛はすぐ殺され、ヒトが食べることはなかったが、狂牛病の潜伏期間まで考慮した対策はとられていなかった。

 昭和63年、英国政府は羊を牛の人工飼料とすることを禁止。平成3年7月には健康な牛でも牛の餌にすることを禁止した。さらに平成4年末には、すべての牛の脳、脊髄、脾臓、胸腺、腸などの特定危険部位をヒトの食用にすることを禁止した。特定危険部位とは、牛が狂牛病に感染していた場合、異常プリオンが多く蓄積している臓器である。

 しかし平成8年3月20日、英国の海綿状脳症諮問委員会は、10人の新変異型クロイツフェルト・ヤコブ病(nvCJD:new variant CJD、現在はvCJDと呼称)患者がいることを発表。10人のvCJD患者は、牛の内臓を食べて発症した可能性が高いとした。狂牛病がヒトに感染することを英国政府が初めて認めたのである。この狂牛病がヒトに感染することを認めた英国海綿状脳症諮問委員会の発表は全世界に衝撃を走らせた。この発表は英医学誌「ランセット」に掲載された論文を根拠にしていた。

 「ランセット」の論文では、10人のvCJD患者が、平成6年2月から平成7年10月までに発症し、死亡した8人の平均年齢は29歳、生存する2人は18歳と31歳で、発症から死亡までの期間は平均12カ月であった。狂牛病がヒトに感染した場合には、変異型クロイツフェルト・ヤコブ病(vCJD:variant CJD)と呼び、ヒト従来のクロイツフェルト・ヤコブ病(CJD)と区別している。

 ヒト従来のCJD発症の平均年齢は65歳で、牛から感染したvCJDの発症年齢は若年という特徴があった。さらにCJDとvCJDではその症状、MRI、脳波所見などに違いがあった。

 数年とされる10人の潜伏期間が、牛からヒトへの感染の危険性が最も高かった時期と一致し、論文では「10人の患者と狂牛病に関連性あり」と結論していた。しかし9人は過去10年間に牛肉を食べていたが、1人は平成3年から菜食主義で、全員が牛肉を食べていたわけではなかった。このようにランセットの論文は、牛からヒトへの感染にあいまいな点があったが、現在では牛からの感染は確実とされている。

 ランセットの論文が「牛からヒトへの感染を警告した」がvCJD患者は増え続けた。平成19年4月現在、vCJD患者は英国で165人、フランスで22人、アイルランドで4人、米国3人、イタリア、スペイン、カナダ、日本で各1人と報告されている。

 日本人の症例は、平成17年2月4日に厚生労働省が公表した例で、平成元年に1カ月間英国に滞在した男性で、その時に感染したとされている。この日本人の患者発生をきっかけに、平成17年6月より、厚労省は英国などの欧州諸国に通算6カ月以上滞在した人からの献血を禁止した。また狂牛病発生国の牛を原料としている医薬品や医薬部外品を使用禁止としたが、医薬品で問題になったのは医薬用カプセルであった。医薬用カプセルは、日本で年間約150億個使用されているが、その75%が外国産の牛由来のゼラチンを原料にしていたからである。

 狂牛病がヒトに感染することから、牛肉を日本に輸出している各国の対応が問題になった。日本は牛の特定危険部位(脳、脊髄、脾臓、胸腺、腸など牛が狂牛病に感染していた場合、異常プリオンが多く蓄積している臓器)をすべて除去しているが、英国は6カ月齢以上の牛で、EU諸国は12カ月齢以上、米国は30カ月齢以上で除去している。オーストラリアでは狂牛病が発生していないことから、特定危険部位の除去は行っていない。

 また日本では全頭検査であるが、米国では全頭検査をやっていない。そのため見た目は正常な牛でも、牛肉に異常プリオンが混入し、その牛肉を食べてしまう可能性があった。

 平成13年9月21日、英国で最初に狂牛病が報告されてから15年目、日本国内で初めて狂牛病に罹患した牛が1頭見つかった。以後、平成19年まで国内で33頭確認されているが、これらの牛はすべて焼却処分されている。

 狂牛病騒動で象徴的だったのは吉野家の牛丼だった。平成15年に米ワシントン州で狂牛病が確認され、米国からの牛肉輸入が停止となり、吉野家は牛肉を米国から輸入していたので、牛肉の調達が不可能になり、牛丼販売を中止することになった。販売が再開されたのは、平成18年9月になってからである。

 平成6年、狂牛病の発生数が月2000頭とピークになったが、それ以降減少している。英国では狂牛病の発症は終息に向かっていることからvCJDの発生も減少すると予想されている。

 牛はヒトの重要なタンパク源である。牛からヒトへの感染の可能性があること、感染すれば確実に死亡することから、狂牛病は食の安全性をめぐり世界的に大きな問題となった。