治験ツアー 

治験ツアー 昭和62年(1987年)

 昭和61年10月31日、デンマーク・コペンハーゲンの運河で、女性のバラバラ死体が発見された。コペンハーゲン港で昼食を取っていたタクシー運転手が、東洋人女性の上半身とみられる遺体の一部を発見したのだった。通報を受けたコペンハーゲン警察が捜査に乗り出したところ、11月7日までに最初の発見現場から1.5kmほど離れた海底3カ所から、頭や足などの遺体を見つけだした。

 コペンハーゲン警察は、バラバラ殺人事件として、歯型や血液型などを、国際刑事警察機構を通じてアジア各国に手配。日本の警察も捜査に乗り出し、現地から取り寄せた指紋などから、被害者を東京・葛飾区東新小岩に住む豊永和子さん(22)と確認したのである。身元が確認されたのは、遺体が発見されてから約半年後のことだった。

 豊永和子さんの生前の行動が明るみに出るにつれ、世間の関心はバラバラ殺人事件とは無関係の方向へと進んでいった。当初、豊永和子さんは観光旅行で欧州へ行っていたと思われていた。しかし実は、経口避妊薬(ピル)の臨床試験要員として西ドイツへ行っていたのだった。しかもこれは新薬開発のためのアルバイトだった。豊永さんが参加した西ドイツ治験ツアーは、日本のマスコミから人体実験ツアーと呼ばれ、世間の注目を集めることになった。

 薬剤の開発には、毒性、安全性、血中濃度、薬理効果などさまざまな試験が必要であった。動物実験の次には人間のデータが必要であり、そのため「人間モルモット」が募集された。西ドイツでは治験(薬剤の臨床試験)は学生たちのアルバイトとして一般的で、現地の大学生ばかりでなく、日本からの留学生も参加していた。

 治験の期間中は決められたホテルに缶詰めになり、薬剤を飲んだ後の副作用や、血液中の薬剤濃度などが調べられた。このアルバイトの報酬は高額で、保険に入っていても何が起きるか分からない不安があった。通常、日本ではこのような治験は、ボランティアにより無報酬で行われるが、西ドイツでは有償で行われ、さらに治験の募集が日本で行われていたのである。日本の業者は、昭和59年ごろから口コミで学生アルバイトを集め、ツアーを組んで定期的に西ドイツに学生を送っていたが、人体実験ツアーの規模は不明であった。

 今回、豊永和子さんが参加した治験ツアーは、西ドイツ・フライブルク市に本社を持つバイオデザインが企画したものであった。バイオデザインは臨床薬理試験の受託会社で、製薬会社の治験を代行していた。登録者は口コミで集めた大学生で200人を上っていた。この地検には薬事法の規制がないため、同一人物が何度も受けることもできた。また事故発生時の責任体制があいまいであった。今回、明るみに出た日本人の外国での臨床試験について、厚生省は「違法ではない」としながらも複雑な反応を示した。

 フライブルク市は人口18万人で治験は大学生にとっては都合の良いアルバイトであった。豊永さんは日当1万円でバイオデザインの日本代理店・ビオブリッジ(東京・千代田区)から募集を受けた。もちろん飛行機代やホテルの滞在費は会社持ちである。

 豊永さんは、このアルバイトのことを家族に内緒にしていた。また豊永さんのほかに、日本からは4人の女性が集められていた。治験期間は、6月9日からの3カ月で、新薬を飲み近くの病院で採血などを受ける簡単なものであった。新薬の副作用の危険性を考えなければ、ホテルで寝ているだけで、一般会社員以上の給料がもらえた。

 退屈なことだけが苦痛であるが、これほど楽なアルバイトはない。また、現地のドイツ語学校で勉強できる特典も付いていた。一緒に参加したほかの女性4人も、日本の大学の各種サークルの口コミで応募していて、成田空港に集合するまで、お互いに面識はなかった。

 治験ツアーを企画したビオブリッジは、豊永さんが参加した治験を西ドイツの製薬会社が依頼したものと説明した。しかし依頼した会社について「企業秘密に関すること」として公表しなかった。

 そのため、「日本人女性を募集したのは、日本で新薬を発売するため」と噂された。当初、厚生省も「西ドイツの避妊用ピルを日本で販売するための治験ツアー」とコメントしている。しかしその後、この治験ツアーが日本の製薬会社から依頼されていたことが、ビオブリッジから

公表されたのである。

 この事件が起きたのは、厚生省がピルの製造許可を予定していた半年前で、日本国内では実質的に臨床試験が認められていなかった。そのため「日本の製薬会社が国内の規制を逃れるため、西ドイツでの試験を依頼した」と予想された。

 日本でもピルが解禁される予定になっており、依頼した日本の製薬会社については、企業秘密の壁に閉ざされ不明であった。さらにバイオデザインは、これまでにも日本の製薬会社から依頼を受け、新薬の治験を頻繁に行っていた事実を公表した。日本で治験を行う場合の手続きの煩雑さを考慮すれば、製薬会社にとっては海外の治験業者に頼んだ方が楽であった。

 豊永和子さんの事件が起きるまで、日本の製薬会社が海外の会社に治験を委託していることは知られていなかった。しかし厚生省の新薬輸入承認申請の審査基準では、外国で日本人を対象にした臨床治験データは必要としていなかったのである。

 そのため様々な憶測が飛び交ったが、厚生省や業界関係者は、「なぜ、多額の費用をかけてまで、外国での治験ツアーを行ったのか、狙いがよく分からない」と治験の真意を測りかねるコメントを述べ、治験ツアーをめぐる謎は明確ではない。

 すでに外国でピルを市販している医薬品メーカーは、日本での申請に向けて準備を急いでいた。また国内メーカーも治験届を厚生省に提出していた。昭和60年6月、厚生省は「新薬の輸入申請に添付される臨床治験データは、外国で行われた臨床治験のうち数項目は、外国人を対象に外国で製作されたデータも審査の対象とする」と決めていた。しかし外国で市販されている医薬品であっても、日本人にそのまま安全で有効かどうか判断できないため、<1>吸収、分布、代謝、排泄<2>投与量<3>治験者同士の比較試験の3項目は、日本国内で日本人を対象にした治験のデータを必要としていた。つまり今回の「治験ツアー」のように、外国で行われた治験のデータだけでは、審査の対象とはなり得ず、なぜ治験ツアーが必要なのか、その必要性が理解できなかった。

 西ドイツ(当時)・フライブルク市で3カ月の治験を終えた豊永さんは、1人で欧州一周の旅に出た。ユーレルパスを使い、鉄道でイタリアからスウェーデン・ストックホルムへ行き、さらにデンマーク・コペンハーゲンへと旅を続けた。

 そして豊永さんはフィンランド・ヘルシンキから出した絵はがきを最後に消息をたっていた。豊永さんは異国の地で殺され、コペンハーゲンの運河でバラバラ死体となって発見されたが、あまりに悲しい事件であった。

 豊永さんは、殺される前年の昭和60年12月から翌年1月まで、1人で韓国を旅行しており、帰国直後には家出同然に関西に旅に出ていた。そして今回、欧州に行く時も成田空港へのバスの中で「これからヨーロッパ旅行に行ってくる」と家族にはがきを書いていた。家族らは、「旅行費用がないのに」と心配していたが、まさかこのような事件に遭うとは、思ってもいなかったであろう。