昭和大替え玉入試事件

昭和大替え玉入試事件 昭和60年(1985年) 

 昭和大替え玉入試事件はひょんなことから発覚した。昭和59年11月、北九州市の医療機器販売会社社長で、入試ブローカー久保田哲夫(46)が、脱税容疑で福岡国税局に摘発された。脱税した3億円の出どころを聞かれた久保田は、昭和大教務部長の池谷信行(55)と共謀して「替え玉受験の謝礼として、1人に付き1000万円から3000万円をもらっていた」と供述したのだった。

 久保田哲夫は、医師になりたくて国公立大学を5回受験するが失敗。揚げ句の果てに無資格診療を行い、実刑判決を受けた前科があった。久保田は服役後も医師になりたくて、昭和大医学部を受験したが、またも不合格であった。この際、教務部長だった池谷信行(55)に受験の相談をしたことから、2人は付き合うようになった。

 久保田哲夫と池谷信行は、はじめは補欠入学者をだまして金を取っていた。しかしやがて、替え玉受験で謝礼金をもらったほうが、儲かることに気付いたのである。替え玉受験は、簡単にできるものではないが、内部に協力者がいればそれほど難しいものではない。久保田は「日刊アルバイトニュース」で、東大、東工大などの優秀な学生を集め、成績の悪い志願者に替え玉を斡旋していた。

 教務部長の池谷は受験票を2通つくり、筆記試験では受験票に替え玉の写真を張り、筆記試験の合格が決まると、受験票を本人のものとすりかえていた。受験票は大学の金庫に保管されていたが、鍵を持っている池谷にとって受験票のすりかえは簡単だった。

 福岡地検での久保田の供述を知った大学は驚き、またマスコミが騒ぎ始めた。大学は調査委員会を設置して調査を開始。池谷の事情聴取から10人の不正学生を特定した。

 福岡検察は、久保田が供述した不正入学者の氏名を、別件を理由に明かさなかった。そのため、昭和53年から59年までの約1000人の全学生のリストをつくり、高校の内申書、受験の選択科目、健康診断書、在学中の成績などを調べ、池谷の供述以外に新たに10人の替え玉受験生を特定した。そして大学は昭和54年と55年の受験者計20人(医学部14人、歯学部6人)が替え玉受験で不正に入学していたと公表した。

 昭和54年に入学した学生は、卒業したばかりであったが、不正入学者は4回の留年経験者を筆頭に、全員留年経験者だったので、まだ卒業していなかった。そのため20人全員が退学勧告を受け退学となった。

 昭和53年以前の受験生については、すでに卒業して国家試験を受けていた。もしその中に替え玉受験生がいたら、厚生省を巻き込む社会問題に発展しかねなかった。そのため、昭和53年以前の受験生についての追及は甘かった。

 教務部長の池谷信行は3月に依願退職し、約2600万円の退職金を大学に返上したが、昭和大は名誉棄損と調査活動に要した費用について損害賠償訴訟を起こした。

 この事件は、昭和大にとって大きな汚点を残した。さらにこの事件が忘れ去られようとしていた平成元年、昭和大は新たな事件を引き起こす。3月11日、昭和大歯学部で卒業試験問題の漏洩事件が発覚したのである。

 歯学部では、6年生を対象に卒1、卒2と呼ばれる卒業試験を行い、この卒業試験に合格した者が、国家試験を受験できるようになっていた。1月に行われた卒1と、2月に行われた卒2の成績を比べた結果、「口腔外科」など数教科の点数に大きな隔たりがあった。また前年の臨床実習試験成績とも大きな違いがあった。そのため、異例の最終試験を実施して、5人を留年処分とした。

 歯学部試験委員会が事情を聴取すると、学生が顔見知りの教務部次長(54)から5教科の問題用紙をもらっていたのだった。試験問題は担当教授が作成、教務部で印刷して保管していた。問題用紙を学生に渡した教務部次長は、学生に同情しただけで、金はもらっていないと説明したが真相は不明である。

 さらに藤田学園保健衛生大学で、平成元年4月の医師国家試験で替え玉受験が行われていたことが発覚した。医師国家試験の替え玉受験は初めてのことであった。警視庁保安二課は、替え玉受験に関与した受験生を含む4人を私文書偽造の疑いで逮捕した。逮捕されたのは、藤田学園保健衛生大大学院生千原秀則(33)と、仲介者の文在旭(56)、岡崎秀幸(57)、替え玉受験をしたパチンコ店店員で日本語学校生の韓国人申載官(30)の4人であった。

 千原秀則は、昭和49年に藤田学園保健衛生大医学部に入学。58年3月に卒業したが、6回連続して医師国家試験に落ちていた。そのため替え玉受験を計画。千原は、岡山県遊技協会理事長を務める父親(57)に替え玉受験を相談。父親は、岡崎秀幸に「自分が貸した600万円を帳消しにする」と文在旭に話を持ち掛けさせた。そして、文在旭が申載官に2万円の謝礼を払って身代わり受験をさせた。

 申載官は、パチンコ店でアルバイトをしながら日本語学校に通い、日本の大学受験を目指していたが、医学の知識はなかった。医学の知識のない者に、医師国家試験を受験させても合格の可能性はゼロに等しいが、それを実行させたことが偉いというかばかげている。

 受験写真用台紙に申の写真を張り、申が千原になりすまして受験、答案用紙に千原の氏名、受験番号を記入して試験を受けた。日本語も満足にしゃべれない申は試験の最中に怖くなり退席。このことを知った文は試験直後、自ら厚生省に電話をかけ、替え玉受験を告白、千原秀則の名前を通報した。文は岡崎がつかまれば、借金返済を待ってもらえると思ったらしい。厚生省は、前年の千原の受験票の顔写真と照合し別人を確認。その後、厚生省は試験方法の見直しなど改善策に乗り出した。あまりにおそまつな事件であった。