日航ジャンボ機墜落惨事

 昭和60年8月12日午後6時12分、羽田発大阪行き日本航空123便(ボーイング747型機)が、乗員15人、乗客509人を乗せ、定刻をやや遅れて羽田空港を飛び立った。離陸から12分後の6時24分35秒、伊豆半島上空を上昇中、機内で突然「ドーン」と爆発音が走った。操縦室では次々に警報音が鳴り、警告灯が点滅、客室内には酸素マスクが下りた。
 高浜雅己機長(49)は、とっさに緊急事態発生の信号「スコーク 77」を発し、東京航空交通管制部に通報。しかしこの時、すでに垂直尾翼の大半が破壊され、その後3分間で油圧はゼロとなった。油圧操縦4系統がすべて作動せず、油圧による操縦が不可能となった。
 羽田に引き返すには、右に旋回して陸側から迂回するか、左へ迂回して海側から向かう方法があった。右迂回では、陸上を通るため市街地に墜落する危険性がある。左迂回ならば、海上に着水して犠牲者の数を減らせる可能性があった。しかし機長は右迂回で羽田に帰ることを決断した。なぜ機長が右迂回を決めたのか、この疑問は今もって分からない。
 日航123便は富士山上空を横切り、操縦のコントロールを失ったまま秩父山系への迷走飛行となった。油圧操縦システムを失ったため、左右のエンジン出力の増減、着陸脚、主翼のフラップで機首をコントロールするしかなかった。さらに客室の気圧低下を回避するため、低空飛行をせざるを得なかった。123便は山梨県大月市上空を旋回し、着陸脚を下ろして飛行機を降下させた。
 123便と東京航空交通管制部の無線を傍受していた米軍の横田基地は、横田基地への緊急着陸許可を機長に伝え、機長もそれを了解。横田基地では不時着、墜落を想定してベテラン軍医やヘリ乗務員を緊急徴集、救難物資の準備を急いだ。
 しかし123便は、機首が左右に揺れるダッチロール状態となり、さらに機首が上下するフゴイド状態に陥り、極限状況でのフライトとなっていた。横田基地付近まで引き返したが、急に山側に左旋回。6時54分、機長は現在位置を見失い、管制センターに「位置を教えてほしい」と連絡を入れた。その約2分後の6時56分30秒、機長の「プルアップ(引き起こせ)」の叫び声を最後に羽田のレーダーから機影が消えた。
 墜落直後、航空自衛隊の茨城県百里基地からF−4EJ戦闘機2機が緊急発進して現場へ向かった。正式な出動要請がない限り自衛隊は出動できないため、発進命令は訓練が名目であった。さらに基地にはMU−2救難機とV−107ヘリを待機させていた。
 午後7時19分、F−4EJ戦闘機は日航機の墜落現場を確認する。航空自衛隊は、何度も出動を要請したが返答はなく、午後7時54分、百里救難隊のV−107ヘリを見切り発進させた。V−107ヘリは夜間にもかかわらず墜落地点を群馬県多野郡上野村御巣鷹山の山頂上付近と詳細に報告した。なお災害派遣命令が下る前に独自の判断で出動を命じた空挺(くうてい)団司令部の幹部はその後左遷されている。
 日航機の状況は在日米軍も把握していた。墜落から約1時間後、米軍C−130輸送機が墜落現場上空に到着、詳細な現場の位置を特定した。米軍厚木基地は暗視カメラを搭載した海兵隊の救助ヘリを現場に急行させ、墜落からわずか2時間で救助体制を整えた。
 米軍の救助ヘリが、救助のために隊員を現場に降ろそうとした時、厚木基地から突然帰還命令が出た。日本の飛行機事故に対する米軍の救出活動は、日本政府の許可が必要だった。そのため米軍は政府に救援を打診したが、日本政府は援助不要とした。政府が米軍の協力を拒んだのは、米軍の救助活動の是非を決めていなかったからである。
 米軍が事故現場を特定し、日本にヘリでの救出を申し出たことは、事故当日のニュースになっていた。しかし翌日未明にはこれらがすべて誤報であったと訂正されている。それ以降、米軍からの救助協力の申し出の事実は隠蔽され、表に出ることはなかった。しかしその後、新潮社の週刊誌に詳細記事が掲載され、上智大文学部の英語の入試問題に、このC−130輸送機の副操縦士の手記が出題され、事故から10年後に在日米軍の現場特定と救助の申し出が事実であったことが明らかになった。
 生存者の4人が救助されたのは墜落から16時間後で、事故直後にはそのほかにも生存者がいた可能性があった。もし米軍のヘリが現場上空から救助していれば、生存者は増えた可能性が高かったのに、なぜ救助を断ったのか残念である。
 自衛隊のV−107ヘリや米軍機は墜落地点を正確に特定していた。しかし新聞社などのヘリは墜落現場に近づいたものの、山が連なる地形のため正確な位置を確認できず、当初、墜落現場を長野県北相木村付近と報道した。日航、報道、自衛隊、警察が慌ただしく動き出したが、防衛庁とNHKは「現場は長野県」と発表、この誤報によって救難活動が大きく遅れることになった。すでに事故現場を特定していたはずの防衛庁はこの誤報によって、後に「自衛隊の無人機との衝突の隠蔽工作」とうわさされた。
 警察は誤報に惑わされ、見当はずれな方向を捜索しようとしていたが、しびれを切らした地元の上野村消防団は、日の出とともに御巣鷹の尾根をめざして出発、消防団員たちが生存者を発見することになる。この事故を他局より先に知ったフジテレビは、事故直後の午後7時半からレギュラー番組をすべて中止し、報道特別番組を約10時間にわたり放送した。それが生存者救出の生中継につながった。
 墜落現場は目を覆うばかりの惨状であった。木々はなぎ倒され、機体は原形をとどめないまでに破壊されていた。小川は血で染まり、バラバラとなった遺体は広範囲に散らばり、荷物が散乱していた。夏の暑さが加わった厳しい状況の中で救出作業が続いた。現場では次々に遺体が収容されていった。鼻を突く異臭と破壊の激しさに、誰もが全員死亡と思っていた。
 8月13日午前11時ごろ、「生きてるぞ」との声が現場を走った。12歳の少女が(川上慶子さん)が救出され、救援隊員に抱えられてヘリコプターにつり上げられていった。この奇跡的な様子はテレビで流され、日本中に感動を呼んだ。
 生存者は、彼女のほかに私用で乗っていた日航のアシスタントパーサーの落合由美さん(26)、吉崎博子さん(34)、美紀子さん(8)親子の女性4人で、藤岡市の病院にヘリで搬送された。乗員乗客524人のうち生存者は4人だけで、航空機の単独事故としては航空史上最大のものになった。
 生存者の話では、後方でバーンと音がして周囲が白くなり、機体が激しく揺れ、ジェットコースターのように激しく上下した。機体の揺れは8の字を描くようなダッチロール状態が約30分も続き、乗員乗客は想像を絶する恐怖と闘っていた。多数の遺品の中には、飛行機内の写真、家族あてのメモもあった。迷走状態の飛行機の中で書かれた遺書がマスコミで報道され、深い悲しみをよんだ。
 事故当日は、お盆の帰省客などで事故機は満員であった。犠牲者の中には阪神タイガース球団の中埜肇社長(63)、ハウス食品工業の浦上郁夫社長(48)、「明日があるさ」「上を向いて歩こう」のヒット曲で有名な歌手の坂本九さん(43)、さらに女優の北原遥子さん、伊勢ヶ浜親方(元大関・清國)の妻子らが含まれていた。
 なお宝塚女優の麻実れいさんは車が遅れて飛行機に乗り遅れ、タレントの明石家さんまさんは搭乗便を1本早めに変更したため難を逃れていた。事故当日のほぼ同時刻の同区間に全日空機が飛んでいた。日航機に乗るのか、全日空機に乗るのかで生死を分けることになった。
 墜落時の猛烈な衝撃と火災によって、犠牲となった遺体の損傷は激しく、バラバラになった遺体の身元確認は困難を極めた。8月の猛暑の中では腐敗も早く、当時はDNA鑑定も確立していなかったため、身元の特定は困難だった。
 14日の朝7時、警察官、医師、歯科医師、日赤救護班の医師、看護婦ら約500人が、仮の遺体安置所となった藤岡市民体育館に集まった。群馬県警察医会理事の歯科医師・大国勉が検視の総括責任者となった。
 広い体育館の窓は黒いカーテンで閉ざされ、外部から完全に遮断された。次々と柩が運び込まれ、体育館は遺体でいっぱいになった。館内の温度は時間とともに上がり、最初の柩(ひつぎ)が市民体育館に運び込まれた時には35度を超えていた。検視総括員は、遺体を完全遺体と離断遺体に区分し、検視番号を付けていった。警察官5人、医師2人(内科系、外科系)、看護婦3人、歯のある遺体は歯科医師2人が1グループとなって検視に当たった。
 一同手を合わせ、一礼してから検視を始めた。遺体を清拭(せいしき)し、まず警察官によって遺体の計測、写真撮影が行われた。次に頭部から足の先まで、順を追って検視が行われた。損傷が激しく、壮絶な肉片に衝撃を受けない者はいなかった。検視はすべてを精密に記録し、顎骨、歯などが残っていればレントゲンを撮り、検視を終えると傷の縫合を行い、再び清拭して全身に包帯を巻いて納棺した。1遺体の検視に約1時間をかけ、検視が終わると、再び遺体に手を合わせた。
 館内の温度は38〜40度となり、死臭でむせ返り、ひたいから流れ落ちる汗が目にしみた。頭部を失った遺体、シートベルトで下腹部から離断された遺体、子供の遺体、炭化した肉塊、検視は汗と涙と悲しみの中で行われた。一刻も早く遺体を確認したい遺族の心情を考え、食事も取らず、徹夜を苦にせず、猛暑の中で必死の検視が続いた。県医師会、県歯科医師会の会員も参加して検視が続けられた。検視により520遺体中、518体の身元確認がなされ、確認できなかった部分遺体は、残念ながら合同荼毘(だび)にふされた。
 事故発生から27日後、ボーイング社はニューヨークタイムズ紙に事故原因を次のように発表した。「同機が7年前に伊丹空港において着陸に失敗、この「しりもち事故」の修理を行ったボーイング社の修理チームのミスが事故の原因につながった」としたのだった。
 ボーイング社の自主的声明は、航空関係者だけでなく、多くの国民を驚かせた。自分たちの恥である修理ミスを隠さずに公表した態度に好感を持った。運輸省の「日航123便に関する航空事故調査委員会」は、このボーイング社の発表を受け、この事故は「昭和53年6月2日に伊丹空港で同機が着陸に失敗してしりもち事故を起こし、その後のボーイング社の修理が不適切であったため圧力隔壁に金属疲労が起き、圧力隔壁が破壊されて航空機後部の4系統の油圧操縦システムのすべてが失われて操縦不能に陥ったことが原因」とした。
 しかしこの報告には疑問があった。もし圧力隔壁破壊があったならば、急減圧や室温低下などで乗員や乗客が失神する可能性が高かったからである。しかしこの事故では乗客は遺書を書き、機内を写真撮影していた乗客もいた。そのため急減圧はなかったとする専門家がいた。また生還した落合さんらは、圧力隔壁が壊れて尾翼を吹き飛ばした説には矛盾点が多いと証言している。
 ボーイング社は修理ミスを認めたが、もしこれが機体の構造的欠陥であったならば、世界を飛ぶ600機の飛行機も事故を引き起こす可能性がでてくる。多数の自社飛行機に影響を及ぼさないように、原因を修理ミスにしたのではないかとの疑惑が残された。
 また強固な垂直尾翼を破壊したのは、何らかの物体が垂直尾翼へ衝突したか、爆発したのではないかとする専門家がいた。垂直尾翼の方向舵ヒンジ部の破損が先で、その後に与圧隔壁が壊れたとする者もいた。操縦士、副操縦士、航空機関士はいずれもベテランで、操作ミスは考えられなかった。なおこの事故から数年後、伊丹空港でしりもち事故を起こした機長が自殺している。
 事故後、日本航空が支払った賠償金の総額は約600億円であった。現在、墜落現場の「御巣鷹の尾根」には慰霊碑が建てられ、毎年8月12日に慰霊登山が行われている。しかし事故発生から25年が経過し、遺族の高齢化が進み、慰霊登山を断念せざるを得ない遺族が増えている。
 前橋地検は修理ミスを確認できないとして、ボーイング社をはじめとする関係者を不起訴処分にした。事故で両親と妹を亡くした川上慶子さんは後に看護師となって、平成7年の阪神大震災で被害者救済のため活躍した。亡くなられた方々の冥福をお祈りするとともに、生き残った4人の方の幸せを祈りたい。