患者取り違え事故

 昭和62年9月21日、福島県いわき市のいわき市立総合磐城共立病院で患者取り違え事故が起きた。会社員の妻で公務員のA子さん(28)が、妊娠しているのに、誤って中絶手術を受けたのである。
 A子さんは妊娠4カ月で「切迫流産」の診断を受けていた。同病院へ2週間入院し、1週間の自宅療養の後に、夫とともに産婦人科外来を受診していた。同じ外来に、人工中絶を予定していたBさんがいた。Bさんは妊娠2カ月で風疹に罹患したため、人工中絶を希望して通院していた。A子さんとBさんの2人は偶然にも同姓であった。
 事務員が窓口でBさんの名字を呼んだが、Bさんはトイレに行っていた。そのためA子さんは自分が呼ばれたと思い病室に入った。窓口では名字を呼ぶだけで、名前までは確認していなかった。また診察室の看護婦も名字だけで、カルテや氏名の確認をしていなかった。このことが悲劇の始まりだった。
 産婦人科の診察台は、患者の羞恥心を減らすため、上半身と下半身が、カーテンで仕切られている。診察台はどの病院でも同じで、医師から患者の顔が見えないようになっていた。医師(36)は子宮の大きさを触診で調べたが、患者の顔を見ていなかった。本人確認をないまま、局部麻酔をして中絶手術を行ったのである。
 手術中、いつもの診察と違うことに気付いたA子さんが異変を訴え、医師は初めて間違いに気付いた。A子さんは大声で「人殺し」と叫んだが、看護婦は思わずA子さんの口を手で押さえてしまった。産婦人科部長が、直ちに手当てをしたが、中絶は終わっていた。

 中絶され胎児はA子さん夫妻にとっては初めての子供になるはずで、出産予定日は翌年3月15日だった。病院側は手術後、A子さん夫妻に「流産したことにしてくれないか」と話したが、夫妻はこれに応じず、「誤診で中絶」との診断書となった。
 ミスを犯した医師は9年の経験があったが、「よく確認せず、漫然と手術をしてしまった。深く反省している」と過失を認めて謝罪した。阿部新平院長も「偶然と不注意によるミスで、誠に申しわけない。二度と起こさないので勘弁していただきたい」とひたすら陳謝した。
 医療事故が起きるたびに、医師の個人的資質が問われるが、同じ外来で手術と診察が流れ作業のように行われている。このように質よりも量をこなす医療そのものが、今回の事故の本質的な原因だったのではないだろうか。
 いわき市と担当医師は被害者の夫婦に慰謝料など1000万円を支払うことになった。1000万円の内訳は800万円が慰謝料、200万円が見舞金であった。いわき簡易裁判所は、業務上過失傷害の罪で産婦人科医師に罰金20万円の略式命令を出した。さらに医道審議会は担当医師に医業停止1カ月の処分を行った。
 いわき市立総合磐城共立病院と同じような中絶事故が、昭和63年2月6日、高松市のYマタニティクリニック(Y院長40)でも起きている。26歳の主婦が5カ月の定期検診に来たのに、切迫流産の患者と間違えられ、院長の妻であるR副院長(39)が中絶処置を行ったのである。この医療事故でクリニックは1500万円を支払うことで示談が成立している。
 産婦人科の患者取り違え事故としては、平成3年に石川県の産婦人科診療所で体外受精の治療を受けていた患者に、過って別の患者の受精卵を移植したことがあった。体外受精は高度医療の典型であり、信じがたい医療ミスであるが、体外受精は年間1万件を超えており、起こりえる事故といえた。この事件をきっかけに、日本産科婦人科学会倫理委員会は、精子や卵子を操作・培養する際には、器具に患者名や識別のIDナンバーを明記し、複数の精子や卵子を同時に扱うことを禁止した。また凍結胚などの保管場所の施錠を徹底し、管理者の責任体制を整え、事故のニアミスが発生した場合には報告する対策をつくった。
 しかし平成14年11月、愛知県の小牧市民病院で不妊のため人工授精を受けていた県内の30代の女性に、誤って夫以外の男性の精液を注入する事故が起きている。医師が女性の順番を間違えて、別の女性の夫の精子を注入したのだった。
 女性が待合室で座っていると、治療が終わったのに、再び診察室から自分の名前を呼ばれ、不審に思って医師に確認すると、この女性に注入するはずの夫の精液が残っており、取り違えが分かった。医師がすぐに洗浄処置を取ったため、女性は妊娠しなかったが、結果が分かるまで精神的な苦痛を受けることになった。
 小牧市は医療ミスを認め、末永裕之院長が女性に謝罪した。病院側は「患者の氏名を確認しなかった初歩的なミス」としている。小牧市民病院では、患者に自分の名前を名乗らせて確認する「医療安全対策マニュアル」を作成していたが、現場では守られていなかった。
 小牧市民病院は、徹底した効率化と人件費の削減で17年連続の黒字を出していた。しかし一方では、看護師や医師は不足しており、そのことが取り違え事故の一因となったのではないだろうか。