天皇・裕仁の崩御

天皇・裕仁の崩御 昭和64年(1989年)

 昭和62年4月29日、昭和天皇は皇居で行われた天皇誕生日の宴会の席で気分が悪くなり、途中で退席された。陛下が公式の席で退席されるのは、初めてのことであった。陛下は86歳という高齢に加え、当日は朝から分刻みのスケジュールで祝賀行事をこなしていた。侍医の星川光正は、退席の理由を過酷なスケジュールによる疲労と説明した。後で振り返ると、この時の症状が膵臓がんの最初の兆候だった。しかしその後、陛下の容体は回復し、通常どおり公務を続けられた。

 CTスキャンを含めた精密検査では何の異常も発見されず、嘔吐はその時かぎりのものと思われていた。ところが8月下旬になると、陛下は食べたものを嘔吐する症状を繰り返すようになった。体重は減り、衰弱が強くなった。

 9月13日、宮内庁病院でバリウム検査を受けられ、その結果、陛下の十二指腸に通過障害が見つかった。高木顕侍医長が中心になり、拡大侍医会議が行われ治療方針が検討された。その結果、通過障害を起こした病巣を残したまま、腸のバイパス手術を行うことになった。

 9月22日、森岡恭彦東大教授をトップとする医師団によって手術が実施された。宮内庁は「腸の通過障害」で天皇陛下が手術を受けられたことを発表。歴代天皇の中で初めて受けられる開腹手術であった。

 森岡教授は術後の記者会見で「経過は順調で、通過障害の原因は慢性膵炎の可能性が高い」と発表した。手術から1週間後、陛下の病名は「慢性膵炎」と正式に発表されたが、本当の病名は「膵臓がん」であった。

 慢性膵炎の病名が発表される3日前、執刀医である森岡教授、病理の浦野教授、森亘東大総長、高木侍医長が東大総長室に集まり、「陛下へのがんの告知」について話し合っていた。陛下にがんの告知はできないが、それでは陛下にうそをつくことになる。このジレンマの中で、慢性膵炎の病名は苦しい選択であった。

 陛下の容体を心配する多くの医師たちは、「慢性膵炎」の発表を信じなかった。嘔吐、膵臓、手術。この3つのキーワードをつなげれば、陛下のご病気が慢性膵炎ではなく、膵臓がんによる通過障害であった。慢性膵炎が通過障害を起こすはずはなく、また慢性膵炎で手術するはずはなかった。

 膵臓は十二指腸に接する位置にある。そのため膵臓がんが進行すると十二指腸を圧迫し、通過障害を起こすことがある。十二指腸が通過障害を起こせば、食べたものが胃から腸へ通過できなくなり、胃液などの消化液もせき止められ、嘔吐などの症状が出てくるのだった。

 昭和天皇が受けたのは、膵臓がんを取り除いて、十二指腸の通過障害を改善させる手術ではなかった。膵臓がんを残したまま、「十二指腸と小腸を吻合するバイパス手術」であった。

 陛下が亡くなるまで、病名は慢性膵炎とされていたが、医師の多くは膵臓がんの可能性を心に秘めていた。そして奇跡を願う気持ちで陛下の回復を祈った。医師たちは膵臓がんだろうと思っていたが、不治の病である膵臓がんという病名を口に出すことはできなかった。

 術後の経過は順調に経過し、昭和62年10月7日に退院なされた。退院後、吹上御所を散歩される写真が公表され、9月の手術がうそであったかのように、陛下は元気を取り戻された。

 しかし翌昭和63年8月15日、東京・武道館での戦没者追悼式に出席された陛下は、かなりやせており、その痛々しい姿は国民に大きな不安を抱かせた。陛下は黙祷(もくとう)の後に追悼の言葉を述べられたが、言葉は弱々しくおぼつかない足取りであった。

 手術からほぼ1年後の9月18日、陛下は大相撲秋場所観戦の予定を当日にキャンセル。翌19日の午後10時すぎ、大量の血液を吐き重体になられた。意識が薄らぎ、血圧の低下がみられ宮内庁職員幹部らが非常招集を受けた。宮内庁から日赤に緊急電話が入り1400ccの輸血がなされた。

 9月20日、「天皇陛下ご重体」の報道がなされ、その日から111日に及ぶ天皇陛下の闘病生活が始まることになる。陛下は膵臓がんからの出血のため、大量の輸血が必要だった。それは十二指腸に浸潤した腫瘍からの出血と思われた。陛下への輸血のために自衛隊員が集められ、輸血が繰り返された。陛下に輸血された血液の総量は、3万1865ccに達した。この輸血量は、身体全部の血液を10回入れ替えられるほどの量であった。

 5人の侍医と8人の看護婦が、24時間体制で看病に当たった。陛下は111日の闘病生活の間、何度も重体に陥ったが、緊急輸血などで危篤状態を脱して小康状態を保っていた。国民のほとんどは不吉な時が次第に近づいているのを感じ、昭和の時代の終わりを予感していた。

 がんの末期状態で出血を繰り返す場合、延命のための大量輸血は行わないのが原則である。しかし国民が見守る中、陛下の輸血を中止することはできなかった。当時、尊厳死や安楽死などが、国民的話題になっていたが、まだ一般的議論には至っていなかった。延命治療の無意味さも社会問題になり始めていたが、それを天皇陛下に当てはめることはできなかった。陛下の病気は、それを議論するのによい機会であったが、誰もそれを口に出せなかった。輸血の中止は、陛下の死を意味していたからである。

 昭和天皇が重体になられてから、日本国内はすべてが「自粛ムード」に包まれた。タレントの結婚式やデパートのバーゲンセールが自粛され、商店街からはジングルベルの歌が消えた。政府は、閣僚の外遊を禁止し、自民党の議員には禁足令が出された。

 花火や祭りは中止となり、学校の記念祭・学園祭も取りやめになった。さらにテレビの下品なお笑い番組は中止となり、日産のCM「みなさん、お元気ですか」、ロッテのCM「ついにその日がやって来ました」が放送中止となった。

 宮内庁からは、記者会見で陛下の血圧・熱・脈拍などのバイタルサインが毎日発表され、輸血があれは輸血量が追加発表された。人々は、わずかな期待を持ちながら、陛下の回復を待った。しかしマスコミは最後の日をXデーと暗号で呼び、その日に備え報道体制を整えていた。

 昭和64年1月7日の未明、陛下は危篤状態に陥り、皇族関係者や竹下登首相らが次々に吹上御所に駆けつけ、そして陛下は同日午前6時33分に崩御なされた。

 午前7時55分、宮内庁長官・藤森昭一によって「天皇陛下におかせられましては、本日午前6時33分、吹上御所において崩御あらせられました」と崩御の発表であった。87年と8カ月の生涯で、実質的な在位期間は62年間であった。

 陛下が崩御なされて3時間ほどたった9時30分、高木顕侍医長は記者会見を行い、陛下の死因は十二指腸乳頭周囲腫瘍であると述べた。乳頭周囲とは、膵管が十二指腸に合流する部位で、十二指腸乳頭周囲腫瘍は膵臓がんの1つに分類されている。

 前年の手術の際、慢性膵炎と発表していたが、事実上、訂正したのであった。また高木侍医長は、科学者である陛下はかなり早い段階からがんであることに気付いていた可能性を述べた。陛下は、昭和62年に弟の高松宮宣仁殿下を肺がんで、昭和36年には長女・東久邇成子さまをがんで亡くされていた。陛下はご自分の病気の告知はなく、輸血を繰り返す対症療法だけであった。皇太子殿下には侍医長からがんの疑いが強いと説明があったが、皇太子殿下は「よろしく頼みます」とおっしゃっただけであった。

 当時、がんの告知や終末医療の在り方が、大きな社会的問題になっていた。しかし、陛下の病気を前にその問題は大きく後退し、陛下の最期の治療は医師任せとなった。もし陛下が、がんの告知を受け延命治療を拒否なされていたら、日本の終末医療、延命医療は違う方向を辿ったかもしれない。患者の意思による医療の選択権が飛躍的に高まったかもしれない。しかし実際には、がんの告知と終末医療の問題は数歩後退した。

 昭和天皇が崩御した日、20の記帳用テントが坂下門前に用意され、記帳者は1日で27万9407人に上った。民放は40数時間にわたりCMなしで追悼番組を流した。

 皇太子明仁親王は、昭和天皇の崩御に伴い皇位継承のための「剣璽等承継の儀」を行い、新天皇に即位なされた。「天皇は1日も空しくすべからず」という皇室の伝統に沿ったものであった。

 竹下登首相は「元号に関する懇談会」を招集。そこで「平成」「修文」「正化」の3案が検討され、午後2時35分に小渕恵三内閣官房長官が新元号を「平成」と発表した。目まぐるしい昭和最後の1日だった。昭和64年は1月1日から7日までの7日間となり、1月8日からは平成元年となった。

 昭和天皇の崩御は、海外でも大きく受け止められ、「第2次世界大戦指導者の最後の死」として、新聞1面で大々的に報道された。海外の有力雑誌、テレビなども、相次いで「天皇特集」「日本特集」を組み、空前の取材陣が海外から日本に押し寄せた。

 昭和から平成に年号が変わり、2月24日に昭和天皇をお送りするための「大喪の礼」が東京・新宿御苑で行われた。その日は、朝から雪交じりの冷たい雨が降り続いていた。

 天皇の葬儀が、戦後の日本国憲法下で行われるのは、初めてのことであった。天皇が崩じられたときは、大喪の礼を行うとされているが、大喪の礼をどのように行うかの法的な定めはなかった。そのため政府は、政教分離に配慮し国の儀式と皇室の儀式を分けることにした。新宿御苑での大喪の礼は、国の儀式としたが、「斂葬(れんそう)の議」のうち、同日同所での「葬場殿の儀」と東京都八王子市の武蔵陵墓地内での「陵所の儀」を中心とする昭和天皇大喪儀の儀式は、皇室の行事として行われた。

 大喪の礼に先立ち、昭和天皇の柩(ひつぎ)は竹下首相らの先導で皇居を出発。二重橋、桜田門、国会議事堂前を経て、葬場である新宿御苑まで厳かに進んでいった。大喪の礼には、海外からブッシュ米大統領、ミッテラン仏大統領、ベルギーのボードワン国王ら元首級の55人をはじめとした164カ国、約9800人が参列。英国ビクトリア女王以来の史上最大規模の葬儀となった。

 国会議員のうち日本社会党の大半は、皇室と政府の両儀式の区別が明確でないとして大喪の礼のみ参列した。また、日本共産党はすべての儀式に参列しなかった。

 大喪の礼では、今上天皇・皇后が葬場殿の前に進み出て、1分間の黙祷(もくとう)を行った。続いて竹下首相ら三権の長が弔辞を読み上げ、外国代表が拝礼した。国の儀式と皇室の儀式が分けて行われたが、全体としては1つの形にまとまっていた。その後、昭和天皇の柩は武蔵陵墓地に運ばれた。沿道で見送る一般市民は20万人に上り、昭和天皇との別れを惜しんだ。

 昭和天皇は87歳で崩御したが、神話上の天皇を除き歴代の中で最も長寿だった。昭和天皇が歩んだ激動の昭和も2万2660日で幕を閉じ、陛下は武蔵野陵で安らかな眠りにつかれた。

 昭和天皇は、明治34年4月29日に大正天皇の第1皇男子として誕生。大正10年11月、大正天皇のご病気のため摂政となり、その2年後には関東大震災に遭遇。天皇即位後は、金融恐慌や満州事変を経験し、終戦までの20年間は「現人神」として日中戦争・太平洋戦争という激動の中心にいた。

 戦後は国民の象徴として、自ら「人間宣言」を発し、混乱の続く全国各地を回って国民を激励した。国家建設の努力を国民とともに体験し、戦後の復興と高度経済成長の繁栄を迎え、まさに激動の昭和史の中を生きてこられた。苦楽をともにした国民は、昭和天皇に自分の人生を重ね合わせ、特別な感情を持っていた。

 晩年の昭和天皇は、ひたむきな姿勢や独特な歩き方、話し方などから、一般国民の間ではかわいいお爺さんというイメージが強かった。昭和天皇の国民を思う優しい人柄は、現在も国民の間に生き続けている。4月29日の昭和天皇の誕生日は、祝日として残されている。