国立がんセンター看護婦殺人事件

国立がんセンター看護婦殺人事件 昭和62年(1987年)

 昭和62年7月5日の夕方のことである。東京都江東区有明の埋め立て地の波打ち際で、犬の散歩をしていた会社員が、奇妙な旅行バッグが打ち上げられているのを発見した。会社員が犬にせかされて近づいてみると、旅行バッグには人間の遺体らしきものが入っていた。

 通報により駆けつけた警察官が調べると、バッグに押し込められていたのは、若い女性の腐乱死体であることが分かった。遺体は全裸で、大腿部などがガムテープで縛られ、腐乱の状態から死後数週間とされた。

 この事件はその後、奇妙な展開をたどることになる。遺体の発見から2日後、東京都豊島区南大塚のマンションで、医師・森川映之(34)がベッドで自殺しているのが発見された。森川映之の遺書には、国立がんセンターの看護婦・富永松江さん(24)を殺害したと書かれていた。

 深川署の捜査本部は、森川映之の残した遺書を手がかりに、腐乱死体で発見された若い女性が富永さんかどうかを調べた。そして歯科医院に残されていた富永さんの歯の治療跡が、遺体と一致したため、女性の遺体を富永さんと断定した。検死によると、富永さんの死因は絞殺によるもので、海に捨てられたバッグにはスキューバダイビング用の重り十数個が入っていた。腐敗によるガスでバッグが浮上し、波の力で岸に打ち上げられたのである。

 森川映之と富永松江さんの2人は、約1カ月前から行方が分からず、両人の家族から捜索願が出されていた。富永さんは、遺体が発見される約1カ月前の5月31日未明、がんセンターの夜勤を終えて、自宅近くまでタクシーで帰ったまでは分かっていた。しかしその後、自宅には帰っておらず、足取りはそこでプッツリと消えていた。

 富永松江さんと交際していた同センターの研修医・森川映之が富永さん失踪の鍵を握るとされていた。しかし森川は、富永さんが失踪した翌日から病院を無断欠勤、6月2日に森川の妻から捜索願が出されていた。森川は7月2日付けで、無断欠勤を理由に国立がんセンターの研修医の地位を取り下げられた。

 やがて森川映之の失踪後の行動が判明する。森川は自殺するまで、医学雑誌の広告にあった豊島区の美容整形外科に月給100万円で勤務し、南大塚のマンション寿高ビルに入居していた。この新しいマンションで、森川映之は富永さんとは別の国立がんセンターの22歳の看護婦と同棲生活をしながら身を隠していた。

 富永松江さん(24)が遺体となって発見された翌7月6日、森川映之(34)は美容整形病院から勤務中に無断外出。次の日になっても森川が出勤しないため、不審に思った同僚が彼のマンションを訪ね遺体を発見したのである。

 森川映之はベッドの上にあお向けになり、コンセントから引いた電気コードの先端を胸と背中に張り、タイマーを用いて感電死していた。母親にあてた遺書には、「生まれてこのかた、迷惑ばかりかけたけど、許してくれとは言いません。今までの人生はしあわせだった。高橋和巳(京都大助教授、作家)にはなりきれなかった。誤解されて死んでゆくのは何とも思いません。忘れてください」と書かれていた。

 森川映之の女性関係がすさんでいた。離婚調停中の妻がいながら、別の女性と関係を持ち、何者かから3000万円を要求されていた。そのため築地署に被害届を出していたが、恐喝はその後も続き、事件直前まで勤務先などに現金を要求する電話がかかっていた。

 森川映之は恐喝事件の事情を知った富永さんに嫌われ焦っていた。その一方で、森川は富永さんとは別の看護婦と同棲をしていた。そして、その看護婦に「大変なことをしてしまった。もう一度やり直したい」と、富永さん殺しを打ち明けていた。また別居中の妻には、「人生がいやになった」と電話で自殺をほのめかしていた。

 森川映之は同棲していた看護婦にも遺書を残していた。遺書には「迷惑を二度もかけてしまった。心の支えになってくれて、ありがとう。きみは信頼そのものだった」と書かかれてあった。

 森川映之が、富永さんの遺体を詰めた同種の旅行バッグを持っていたこと、家宅捜索で部屋からバッグにあった潜水用のおもりと同じものが見つかったことから、捜査本部は森川が富永さんを殺して海に捨てたと断定。愛情関係のもつれが殺害の動機と発表した。

 国立がんセンターに研修医として勤めていた森川映之は、滋賀県の琵琶湖のほとりにある長浜市で生まれている。4人兄弟の二男で、中学生の時に父親(46歳)ががんで死亡。実家は魚屋だったが、教育熱心な母親に育てられ、成績は常にトップクラスであった。

 昭和46年、東大農学部に合格。東大在学中に、国家公務員上級試験を受験するが不合格となった。不合格となった理由は、革マル派に所属して学生運動を行っていたからとされている。しかし不合格が決まると、今度は東大法学部に入学。翌年には東京医科歯科大を受験して合格している。秀才ぶりを発揮する森川は、母親にとって自慢の息子だった。

 森川は東京医科歯科大4年(28)の時に、歯科医師の女性と結婚。結婚相手は鶴見大歯学部卒で、森川の1歳年下だった。森川は大学を卒業すると、東京医科歯科大の一般外科の研修医になり、昭和61年から国立がんセンターの研修医となった。

 森川映之は国立がんセンターで住み込みの医師として働き、妻子のいる品川区の自宅へはほとんど帰っていなかった。結婚していたが、次々に女性に手を出し10人以上の看護婦と付き合っていた。森川の私生活は荒れ、家庭は破局状態にあった。

 森川映之は、妻との離婚調停を進める一方で、国立がんセンターから姿を消し、新たに住み始めた豊島区のマンションで看護婦と同棲していた。この複雑な女性関係が、この事件の下地になっていた。

 一方、富永松江さんは新聞報道の写真から想像がつくように、かなりの美人だった。奈良県天理市の出身で、昭和59年に国立横須賀病院付属高等看護学校を卒業して、がんセンター胸部外科病棟で働き、そこで森川と知り合った。

 富永松江さんが、森川に別れ話を言い出したのかどうかは分からないが、痴情のもつれから殺害されたとされている。富永さんは叔母と一戸建てに同居していたが、近所では「おとなしく礼儀正しい女性だった」と評判であった。富永さんの自宅と森川の家は、大井町駅をはさんで約1kmしか離れていなかった。

 森川映之は富永さんを殺害後、遺体をバッグに入れスキューバダイビング用の重り十数個と一緒に現場近くの海に捨てた。森川はスキューバダイビングが趣味で、これをヒントに死体処理にダイビング用の重りを使ったのである。

 バッグの中には形を整えるため座布団、タオルケット、ボロ布などが入っていた。森川は富永さんの遺体を、海底深くに沈め、何食わぬ顔をするつもりであった。しかし、森川ほどのエリートでも、腐食した遺体が発酵したガスで浮かび上がることを知らなかった。スキューバダイビングの重りは1個2kgで、体重の10分の1の重りをつければ、身体が浮き上がらないと計算したのであろう。そのため森川は計算の4倍以上の十数個の重りをバッグに詰めたが、森川の計算違いであった。

 森川映之は富永さん殺害後、6月から同居している22歳の看護婦と国内旅行を楽しんでいた。しかし富永さんの遺体が発見されたため、捜査が及ぶことを察知しての自殺だった。

 国立がんセンターの末舛恵一副院長は7月8日の記者会見で、「われわれも2人がどこにいるのか分からず心配していた。2人が付き合っていたことを失踪(しっそう)前に知っていた者はいなかったと思う。このような結果になり大変残念だ」と語った。