利根川教授にノーベル医学生理学賞

利根川教授にノーベル医学生理学賞 昭和62年(1987年)

 昭和62年10月12日、米国マサチューセッツ工科大(MIT)教授の利根川進博士(48)に、ノーベル医学生理学賞が授与されることになった。日本人のノーベル賞受賞は、物理学賞の湯川秀樹・朝永振一郎・江崎玲於奈、化学賞の福井謙一、文学賞の川端康成、平和賞の佐藤栄作に次いで7人目であった。

 日本人が医学生理学賞を受賞するのは利根川進が初めてで、「多様な抗体を生成する遺伝的原理の発見」が受賞の理由であった。賞金は217万5000クローネ(約4900万円)で、12月10日にスウェーデンのストックホルムで授賞式が行われた。

 利根川教授の業績は数多いが、受賞の対象となったのは、遺伝子レベルで免疫の仕組みを解明したことである。

 ヒトの体に病原菌やウイルスなどが侵入した場合、身を守るための免疫システムが作動する。これは抗体と呼ばれる免疫グロブリンが、病原菌やウイルスを攻撃するシステムであるが、このシステムには大きな謎があった。理論上100億個以上とされる異物に対し、人間の限られた数の遺伝子がどのように抗体をつくるのかである。ヒトの遺伝子は、当時は10万個(現在は3万個)と考えられていて、10万個の遺伝子がどのように100億個以上の抗体をつくるのかが謎であった。利根川教授は遺伝子工学の技術を駆使して、この謎を解明したのである。

 免疫反応を担うリンパ球にはT細胞とB細胞の2種類があるが、抗体をつくるB細胞の遺伝子が成熟の段階で短くなることを利根川教授はが証明したのである。つまり「B細胞の抗体を作る遺伝子が、いくつかの部分に分かれていて、それらが再結合して病原体に対する抗体をつくる」ことを証明したのだった。

 たとえば100万個の異物があっても、それに対する抗体の遺伝子が100万種あるわけではない。100の遺伝子が3組あれば、その組み合わせは100万種(100×100×100)になるのである。それまで遺伝子は固定して動かないもの、体細胞の遺伝子は常に同じと信じられてきた。しかし免疫グロブリンの遺伝子は、自ら再配列して、多様性に対応していたのである。

 さらに遺伝子には「エクソンという遺伝子本体の部分」と、「イントロンと呼ばれる一見無用な遺伝子の部分」があって、イントロンがエクソン遺伝子をつなぐ「のり」のような働きをしていることを発見している。この発見は遺伝子の常識を破るもので、生物学界に大きな影響を与えた。

 利根川教授は、リンパ球T細胞の研究でも大きな業績を上げている。免疫反応を制御するT細胞は体内の異物を直接攻撃すること以外に、抗体をつくるB細胞の働きを調節する作用を持っている。利根川教授はこのT細胞の異物を識別する受容体タンパク(レセプター)の構造を解明しして、受容体が抗体と同じように、どのような異物にも対応できる多様性を持っていることを証明した。

 利根川進教授は、昭和14年9月5日に名古屋で生まれたが、父親の職業の都合で日本各地を転々とし、昭和34年4月に都立日比谷高校から、京大理学部化学科に入学している。利根川教授の学問へのスタンスは「ほかの人と同じことをしたくない」ということで、大学では教科書で習う化学に情熱を失っていた。ちょうどその当時、生物の基本的な現象を物理や化学の方法で解明する「分子生物学」が、欧米で盛んになっていた。英国のクリック博士と米国のワトソン博士が、DNAの二重螺旋構造を発見してノーベル賞を受賞したのもそのころである。

 昭和38年3月に京大理学部化学科を卒業すると、新しい学問である分子生物学を専攻し、京大ウイルス研究所の大学院生となった。そこでウイルス研究所の所長であった渡辺格(いたる)教授から米国留学を勧められ、9月から米国のカリフォルニア大サンディエゴ校に留学することになった。

 昭和43年6月、利根川教授はバクテリアに感染するウイルスの研究(バクテリオファージ)で博士号を取得し、その後、ソーク研究所のレナート・ダルベッコ博士(昭和50年度ノーベル賞受賞)のもとで、がんウイルスについて研究を行った。

 昭和46年にスイスのバーゼル免疫学研究所の主任研究員になり、抗体遺伝子の研究で次々に優れた成果を上げた。昭和56年9月からマサチューセッツ工科大(MIT)の教授となって、哺乳類の免疫現象を解明し、昭和57年に朝日賞、昭和58年に文化功労者の表彰を受けている。昭和59年には45歳で文化勲章を受章し、昭和60年にはNHKディレクター真由美さん(33)と再婚し、米マサチューセッツ州に在住した。

 利根川教授は、分子遺伝学の研究が微生物から高等生物へと進み始めた時期、いち早くその研究に没頭し、世界中を驚かすような成果をだした。彼の研究は「トネガワのエレガントな仕事」と賛辞されている。利根川教授はそれまでの免疫学から脳神経の研究に移り、平成6年にマサチューセッツ工科大の学習記憶センター所長になった。このように常に新たな分野に興味を持ち研究に邁進するタイプであった。

 ノーベル医学生理学賞は、最近ではグループで受賞することが多く、利根川教授のように単独での受賞は珍しいことであった。ノーベル賞100年の歴史の中で、医学生理学賞を受賞した日本人は利根川教授ただ1人で、日本では大騒ぎとなった。しかし利根川教授は外国での研究が評価されたのであって、日本では研究をしていない。日本の閉鎖的な大学の環境になじめず、頭脳流出の形で海外に移り住んでいたのである。

 和を重んじる日本人の研究は独創性に欠け、ノーベル賞には縁が遠いとされている。ノーベル賞の人材はいても、それを育てられないのが日本なのである。