乳児ボツリヌス症

乳児ボツリヌス症 昭和62年(1987年)

 昭和52年、従来のボツリヌス中毒とは発生機序の違う「乳児ボツリヌス症」が米国で初めて報告された。乳児ボツリヌス中毒の原因は、ボツリヌス菌に汚染された蜂蜜などを経口摂取することで、米国では年間約60例が報告されている。

 乳児ボツリヌス症が注目されたのは、乳児の突然死の原因ではないかとされたからで、カリフォルニアの調査では、乳児突然死症候群の乳児29人中9人の血清あるいは糞便からボツリヌス菌が検出されていたのであった。

 昭和62年、この乳児ボツリヌス症が日本で初めて確認され、以後、年間数例の報告がある。日本では、死亡例がないことから注目度は低いが、未確認例が多いのではないかとされている。乳児ボツリヌス症は糞便からボツリヌス菌が大量に分離されるが、成人の場合と違い血液中の毒素は少ない。

 ボツリヌス菌は土壌に広く分布していて、食品とともに口から入るが、ボツリヌス菌は耐熱性の芽胞を持つため通常の煮沸では滅菌できない。成人では経口からのボツリヌス菌感染はまったく問題にならないが、乳児の場合は腸内細菌叢が未熟なため問題を引き起こすのである。乳児ボツリヌス症は生後1年未満、特に生後8カ月未満の子供を中心に発症する。

 熊本のからし蓮根(れんこん)によるボツリヌス中毒事件は、ボツリヌス菌が体内で増殖したのではなく、真空パック内で増殖した菌が毒素を分泌し、その毒素が体内に入り多くの死者を出したのである。

 はちみつを買うと、瓶には「1歳未満の乳児には与えないでください」との注意書きが必ず張ってある。このことを不思議に思うかもしれないが、昭和62年に乳児ボツリヌス症が日本国内で発生し、はちみつに混入していたボツリヌス菌が原因だったことからである。乳児ボツリヌス症の原因は、はちみつだけではないが、関連性が証明されたのははちみつだけであった。

 乳児ボツリヌス症は、生後2週間から1歳未満の乳児に発生する。生後2週間までは、ボツリヌス菌が増殖するのに必要な栄養分が腸内にないため発症はしない。しかし2週以降では腸内に栄養分があり、腸内常在菌が十分でないため、ボツリヌス菌が腸管内で増殖し毒素を産生しやすくなるのであった。

 乳児ボツリヌス症は少量の毒素が徐々に出るため、症状の発現はゆっくりで、特有のものはない。顔面の無表情、哺乳力の低下、泣き声の脆弱(ぜいじゃく)、頑固な便秘、筋力の低下、そして呼吸困難へと続くのである。

 乳児ボツリヌス症の診断は、まず本症を疑うことから始まる。確定診断は乳児の血清からボツリヌス毒素を検出するか、糞便から毒素あるいは菌体を検出することである。生後12カ月を過ぎると腸内細菌が定着して、ボツリヌス菌の増殖を防止するため、乳児ボツリヌス症の発生はない。治療は対症療法が中心で、抗生剤による治療はまだ確立されていない。なお重症になると約25%の患者が呼吸困難に陥り、人工呼吸器による管理が必要となり、致死率は3%とされている。

 昭和62年10月、厚生省は「1歳未満の乳児には、はちみつを与えるべきではない」との通達を出した。そのためはちみつメーカーは、「1歳未満に与えないように」との注意書きを入れることにした。日本では幸いにも死亡例はないが、大手メーカーの紀文は、通達が出されたその日に緊急役員会を開き、疑わしきは製造せず、販売しないことを決定した。おせち料理のだて巻きや卵などには数パーセントのはちみつが入っていたが、その使用を取りやめ、「ハニー入り」と表示していた商品はパッケージをつくり替えることになった。

 一方、「ハニーカステラ」を看板商品にしている文明堂、清涼飲料「はちみつ家族」を売り出しているカルピス食品は、はちみつを緊急に検査し、ボツリヌス陰性を確認して安全性を強調した。

 厚生省は「授乳の際に吸いつきをよくするため、乳首にはちみつを塗り乳児に与えるのは問題だが、生後8カ月を過ぎれば心配はない」と発表している。その後、はちみつを原因とする乳児ボツリヌス症はほとんど見られていない。