中野富士見中学生自殺事件

中野富士見中学生自殺事件 昭和61年(1986年) 

 昭和61年2月1日午後10時すぎ、岩手県盛岡市の盛岡駅に隣接するデパート「フェザン」の地下1階男子トイレで、少年が首を吊って死んでいるのをガードマンが見つけた。この少年は、東京都中野区の中野富士見中学2年生の鹿川裕史君(13)であった。

 トイレの床には遺書が残されていて、そこには「俺だってまだ死にたくない。だけどこのままじゃ「生きジゴク」になっちゃう。俺が死んだらからって、他のヤツが犠牲になったんじゃ意味ないじゃないか。だから、もう君達も、馬鹿なことをするのはやめてくれ、最後のお願いだ」と書かれていた。

 この遺書には同級生2人の名前が名指しで書かれてあった。少年の死は、いじめによる自殺だった。盛岡市は、鹿川君の父親の出身地で、祖父母の家があった。

 中野富士見中学では緊急職員会議を開き、いじめの実態調査に乗りだした。その結果、鹿川君のいじめは2年生の春ごろから始まり、最初はクラスの不良グループの「使い走り」をさせられていた。いじめは次第に加速し、秋には顔にマジックでヒゲを書かれ、下級生を殴るように命令され、廊下で踊らされ、校庭の木に登って歌を歌うように命令されていた。

 厳格な父親(42)は、息子がいじめられていることを知ると、気弱な息子を叱り、その一方でいじめた子供の親たちに抗議をした。学校にも相談したが、教師は転校を勧め、転校で問題を解決しようとした。鹿川君の同級生が、いじめにより1年前に転校しており、学校はいじめの解決法として転校を勧めたのである。

 さらに信じられないような陰湿な実態が発覚した。それは生徒だけでなく、教師たちもいじめに加わり、「葬式ごっこ」が行われていたのだった。

 前年の11月14日、いじめグループらは鹿川君が登校する前に、彼の机の上に飴玉、夏ミカン、花、線香を並べ、鹿川君の写真を飾った。写真の横には「追悼」の色紙まで置き、「さようなら」「安らかに眠ってください」などと書かれた色紙には、級友だけでなく担任を含む4人の教師の名前があった。署名したのは担任の男性教師(57)、音楽の男性教師(57)、英語の男性教師(59)、理科の男性教師(29)で、色紙に言葉を残していた。

 登校した鹿川君は、自分の葬式を知り黙り込んでしまった。葬式ごっこは、鹿川君にとってショックだった。鹿川君は、いじめグループから抜けようとしたが、いじめはさらにひどくなった。鹿川君は次第に学校を休むようになり、そして盛岡での自殺となった。

 葬式ごっこに4人の教師が加わっていたことは、国民に大きな衝撃と失望を与えた。4人の教師の行為は、教師以前の人間として、大人として明らかに間違っていた。しかし学校側は「葬式ごっこ」に加わった4人の教師の行為を「悪ふざけ」と主張した。

 鹿川君の両親は東京都、中野区、リーダー格の2人の両親を相手に、東京地裁に総額2200万円の損害賠償請求を起こした。平成3年3月27日、東京地裁は「葬式ごっこはいじめではなく、自殺と直結させて考えるべきではない。鹿川君の心理的、精神的反応を予見することは不可能だった」と判断を下した。さらに裁判官は「学校教育は、生徒がいじめを克服して主体的に自我を確立すること」とし、学校側と加害者の責任を認めなかった。両親の精神的苦痛への慰謝料として、弁護士費用100万円を含めた総額400万円の支払いだけを命じた。

 鹿川君の自殺は衝撃的であったが、この当時はいじめによる自殺がすでに全国でみられていた。前年の昭和60年9月には、福島県いわき市で小川中学3年生が首つり自殺、同年11月には東京都大田区の羽田中学2年生が飛び降り自殺、12月には青森県野辺地町で中2の男子生徒が自殺するなど、子供の自殺は昭和60年だけで9件を数えていた。

 中野区の中学生が自殺した事件から約7年後、今度はいじめによる自殺ではなく、いじめによる殺人事件が起きた。平成5年1月13日夜、山形県新庄市の明倫中学校の体育館で、1年の児玉有平君(13)が、体操用のマットに巻かれ死亡しているのが発見された。

 生徒たちは体育館で、児玉君に歌いながらの芸を強要し、児玉君が拒否すると体育館の用具室に連れ込み暴行、両足をつかみ逆さづりの状態にして、丸めて立てかけてあった運動用マットに頭から押し込め窒息死させたのだった。この事件で生徒3人が逮捕、4人が補導された。

 体育館には運動部の生徒50人がいたが、誰も止める者はいなかった。殺された児玉君は常に成績が上位でおとなしい性格であった。以前から「標準語を話し、生意気だ」などの理由でいじめられていたが、学校側は生徒どうしの悪ふざけとしていた。

 昭和50年ころより、生活が豊かになり、人々の生活が画一化してきた。子供たちも同様に、生活のパターンが平均化してきた。子供たちには与えられたレールが敷かれ、自由であるのに夢がなく、生きる目標を前ではなく後ろに向けるようなった。このような時代を反映したのが、学校でのいじめであった。

 いじめは昔からあったが、かつては「いじめを卑怯な行為」とする周囲の抑止力があった。弱い者を助ける伝統が生きていた。しかし現在のいじめは陰湿で、普段は仲間としてうまくやっていても、何らかのきっかけで自分がいじめの対象になった。特定の相手への陰湿ないじめ、際限のない執拗(しつよう)ないじめによって、自殺・登校拒否に陥る子供が増加した。

 日本の社会は、均一性・同質性が重んじられ、異文化や独特の個性が異質視される傾向にある。しかしかつては、偉い人物や努力する人間を尊敬する気持ちがあった。人間としての良識がいじめを抑制していた。このような気持ちと良識が崩れ、幼稚化し、愚衆化し、真剣に生きることを、真面目な行為を、からかうようになった。

 中野富士見中学生の事件が、いじめ問題を表面化させるきっかけになった。昭和61年、法務省は「いじめは、力が弱い、よい子ぶる、仲間に入らない、他より優れている、生意気、転校生、肉体的欠陥など、集団の平均から外れている者が対象となる」と分析した。このように、異質なものを認めない社会現象が、いじめの原因ととらえられることが多い。

 しかし、「人間の基本として、相手をいたわる気持ち」を、戦後教育が教えてこなかったことが、大きな間違いだったのではないだろうか。いじめに対し、さまざまな防止策が提唱されたが、それらは学校の責任逃れを形式化した対策にすぎず、いじめは増加するだけであった。

 さらに「加害者がいなければ、いじめは存在しない」はずである。このいじめる側への対策がなされていない。問題が起きると、学校の責任を追及しても、いじめた子供やその親の責任を忘れている。妙な人権意識から、いじめる側の指導がなされないため、問題が解決しないのだろう。

 平成8年、文部省はいじめに関する調査を行い、公立学校3万9849校のうち34.4%でいじめが発生しているとした。しかしこの数値は、作為的に低く抑えられた数字と考えられる。学校側がいじめの実態を把握していないのか、把握していても報告すれば学校の責任を追及されることを恐れてのことか、あるいはいじめが潜伏して表面に出てこないものと考えられる。さらに教師を無力と知って生徒が相談しないなことが考えられる。実感としては100%の学校でいじめがあると思われる。

 いじめで殺害された明倫中学校の児玉君は、「日本は今、世界1の経済大国です。でも何か、貧しくさびしいです。心が……」と文集に書いていた。