ユッコ・シンドローム

ユッコ・シンドローム 昭和61年(1986年) 

 昭和61年4月8日午後零時20分、18歳の人気アイドル歌手・岡田有希子(ゆきこ)が、東京・四谷4丁目のビルの屋上から身を投げた。飛び降りたビルは、有希子が所属するプロダクション・サンミュージックが入居している7階建ての建物で、有希子は地上20メートルから身を投げ、歩道にたたきつけられ死亡した。

 この人気アイドルの投身自殺は、思春期の衝動自殺として片付けられるはずであった。しかし、彼女の自殺は少年少女や学生たちに大きな衝撃を与えただけでなく、誰もが予想しなかった方向へ波紋を広げていった。彼女の自殺が、少年少女たちの連鎖的な「後追い自殺」「誘発自殺」を引き起こしたのである。

 同日の朝、飛び降り自殺の数時間前のことである。有希子は青山6丁目の自宅マンションで自殺未遂を起こしていた。有希子は台所のガス栓を開き、左手首を切った。しかし、マンションの住人がガスのにおいに気付き、駆けつけた警察官によって救出された。救急車は、茫然と立ちすくむ有希子をすぐに北青山病院へ搬送、診察した医師は左手首の裂傷が意外に深いことに気付いていた。通常のリストカットは、それほど深いものではない。

 すぐに消毒が行われ、縫合手術となった。裂傷の深さから神経切断が心配されたが、彼女の手は正常に動いた。医師は有希子に問診を行い、意識障害などの後遺症がないことを確かめ、帰宅可能とした。有希子は、マネジャーに付き添われて帰ることになった。幸いなことに一命を取りとめたが、涙の陰に隠された心の傷の深さを周囲は見逃していた。

 有希子は、病院から四谷のサンミュージックに行き、6階の社長室で泣きじゃくっていた。そしてマネジャーが目を離した瞬間、屋上へ駆け上がり金網を乗り越えた。それは何のためらいもない投身自殺であった。屋上にはスリッパがきちんと並べてあった。

 アイドル歌手・岡田有希子(本名:佐藤佳代)は、愛知県一宮市に生まれ、小学生時代は絵を描くのが好きで、東京芸術大学を目指していた。その有希子が、芸能界を意識したのは中学2年生のとき、フレッシュギャル・コンテストで準優勝したことであった。さらに、新人歌手の登竜門である日本テレビの「スター誕生!」に応募して地区予選で優勝した。松田聖子、中森明菜など、当時のアイドルは若者たちのあこがれだった。

 両親は有希子の芸能界入りに反対した。そのため「学校で1番の成績を取ること」「中部統一テストで5番以内に入ること」「進学校である名古屋市立向陽高校に合格すること」の難題を条件に、歌手への道を断念させようとした。

 しかし、もともとオール5の優等生だった有希子は、学校で1番の成績を取り、向陽高校に合格し、両親は有希子の芸能界入りを止めることはできなかった。有希子は、「スター誕生!」で第46回チャンピオンとなった。「スター誕生!」でチャンピオンになったことは、アイドルの道を約束されたようなものである。親からの3条件を満たした有希子は、上京してデビューするため向陽高校から堀越学園に転校した。

 昭和59年4月、16歳の有希子は「ファースト・デイト」の曲でデビュー。デビュー1年目で日本歌謡大賞、日本レコード大賞の新人賞を受賞し、そのほかの新人賞を総ナメにした。

 デビューから2年間の芸能活動で、8枚のシングルレコード、6枚のLPを出した。さらにグリコやカネボウ化粧品など7つテレビコマーシャルやNHK大河ドラマにも出演し、国民的アイドルにふさわしい人気者になっていた。ひたむきでかれんな印象は、ポスト松田聖子とされ、スター街道を邁進(まいしん)していった。

 人気絶頂のアイドル歌手の自殺は、有希子がトップアイドルへの地位を上り詰めていただけに、連日のようにワイドショーで取り上げられ、過激な報道が繰り返された。テレビは自殺現場を中継し、アスファルトに残された血痕、地面に額を押しつけて嗚咽(おえつ)する少年たちの映像を茶の間に流した。

 飛び降り現場には、300人ものファンが集まり、無言のまま立ち去ろうとしなかった。多くの報道陣が少年たちを取り囲こみ、道路には花束が添えられ、積み上げられた花束は高さ2メートルに達していた。繰り返されるテレビの映像は、彼女の異常な人気を示していた。そして彼女の悲劇を売り物にするように、写真週刊誌「フォーカス」「フライデー」は道路にうつぶせに横たわる遺体の写真を掲載した。

 自殺の3カ月前にヒット・チャート1位となり、アイドルとしてトップ・スターの座を確保した直後の自殺であった。有希子は、「ユッコ」の愛称で多くのファンの心をとらえていた。4月10日に、中野・宝仙寺で行われた葬儀には、3000人のファンが集まった。

 自殺の原因については、その後、マンションの自室から遺書が見つかったため、失恋による自殺とされた。遺書の中に、俳優・峰岸徹の名前が書かれてあったとうわさされ、「妻子ある中年俳優との恋愛の破綻」とマスコミはあおりたてた。

 マスコミにとって、恋に破れた18歳の清純派の少女と42歳の男優の組み合わせが、話題として好都合だった。テレビドラマで共演した年上の峰岸にあこがれて愛情を告白、交際を申し込んだが受け入れずに自殺と週刊誌は書いた。若い女性が事件を起こすと、必ず異性関係をうわさするのがマスコミである。

 彼女の自殺の理由には諸説があり、マスコミ報道が真実かどうかは分からない。峰岸氏との関係も明らかではない。18歳の少女が残したノートには、大人の関係を思わせる記載はなく、メルヘン的な純愛が書かれていたとされている。真実は永遠に闇の中であるが、彼女にはもっと彼女らしい自殺の理由があったのかもしれない。

 自殺は、極めて個人的な行為である。しかし岡田有希子の自殺は、彼女の個人的な死にとどまらなかった。日本各地で彼女をまねた自殺が相次いだのである。彼女の自殺をきっかけに、明らかな動機がないまま、少年少女の飛び降り自殺が全国レベルで連鎖反応を引き起こした。

 神戸では、「有希子ちゃんのようになりたい」と書き残して16歳の少女がマンションから飛び降りた。有希子のブロマイドを抱き締めながら飛び降りた22歳の若者もいた。

 自殺した10代の青少年の総数は、同年4月だけで前年の倍以上の114人、同年全体では前年の44%増の799人に達していた。自殺した少年少女の6割が女性で、しかもその多くが有希子と同じ高いビルからの飛び降り自殺だった。

 飛び降り自殺は、それまでは「男性の自殺法」とされていたが、少女たちの多くが飛び降り自殺を選んでいた。有希子の影響が、いかに大きかったかを物語っている。少女たちにとって、自殺という暗い悲壮感はなく、むしろ「運命をともにして飛翔(ひしょう)した」と表現するのが近いであろう。それだけ有希子の存在は大きくまた身近だった。

 有希子のファンにとっては、自分と同じ世界に彼女が住んでいるとの思い込みがあった。自分と有希子を同化し、有希子と見えない糸につながれ、自殺を深刻に考えず、生死を区別できずに死んでいった。少女らにとっては、親よりは友人、家族よりはテレビの方がより身近な存在だった。

 マスコミによる岡田有希子の自殺の美化、そのセンセーショナルな報道が、中・高校生の揺れる心に影響を与えた。自殺の報道にあおられ、自殺報道が次の自殺を誘った。死に対してぼんやりとした憧憬(どうけい)を抱く若者が多かった。深刻な問題を抱えての自殺ではなく、ただ「さよなら」といった簡単な気持ちからの自殺だった。

 マスコミのスキャンダラスな報道は常道を逸していた。外国では、自殺についての過激な報道がさらなる自殺を誘導するため、行きすぎた報道は禁止されている。しかし日本では有希子の自殺が自殺の連鎖反応を起こしているのに、自粛の動きは見られず、過剰な報道が繰り返された。マスコミが騒げば騒ぐほど、それに引き込まれるように自殺が続発した。

 日がたつにつれ、自殺の連鎖反応が社会問題になり、この現象を「ユッコ・シンドローム」と呼ぶようになった。マスコミは、中・高校生の連続自殺に説教的な報道をするようになるが、飛び降り自殺は加速度的に増えていった。そのため有希子の遺作となった「花のイマージュ」は、悪影響を懸念して発売中止となった。さらにマスコミは後追い自殺を防止するため、有希子の自殺報道だけでなく、彼女の音楽や出演したテレビの放映まで一切を中止することにした。

 このようなユッコ・シンドロームに近い現象が、昭和8年2月にもみられた。それは伊豆大島の「三原山行き」である。昭和8年2月12日、実践女子専門学校の生徒が三原山の火口で投身自殺。この新聞報道をきっかけに多くの人たちが三原山の火口に飛び込んだのである。三原山は一躍、自殺の名所となり、昭和8年だけで944人が自殺。そのため大島への汽船の片道切符は、販売が中止されたほどである。この「三原山行き」現象も連鎖自殺の1つといえる。

 芸能人の自殺は特に珍しいことではない。ただ、ニュースがあまりに突然なので、多くの人たちに強いインパクトを与えるのである。これまで自殺で亡くなった芸能人を列挙すると、昭和53年、最高の美男子とされた俳優の田宮二郎が猟銃で自殺。田宮二郎は躁鬱病だったとされ、米国製の散弾銃をベッドの中に入れ、足の指で引き金を引き、銃弾が心臓を貫いての即死であった。昭和60年には、「有楽町で逢いましょう」で有名な歌手・フランク永井が首つり自殺を図った。生命は取り留めたが、後遺症として脳に障害を残した。

 昭和58年6月28日、俳優・沖雅也が東京・新宿の50階の高層ホテルから飛び降り自殺。義父への遺書に、「オヤジ、涅槃(ねはん)で待っている」の言葉を残し話題を呼んだ。涅槃とは、仏教の言葉で悩みや苦しみのない悟りの世界を意味していた。2人は同性愛だったとされ、当時は涅槃という言葉を同性愛の意味で使った。

 そのほか、映画監督の伊丹十三(平成9年、飛び降り自殺)、女優の可愛かずみ(平成9年、飛び降り自殺)、網膜剥離に苦しんだブルーコメッツの井上忠夫(平成12年、首つり自殺)、落語家・桂三木助(平成13年、首つり自殺)が記憶に残っている。

 芸能人の死因として自殺が多いと思われるが、もともと自殺によって、日本では年間3.4万人が死亡している。自殺は50人に1人の死因で、意外に頻度の高い死因なのである。

 岡田有希子は愛知県愛西市の成満寺の墓で永遠の眠りについている。今でも手向けの花が絶えることはない。