ベトちゃん・ドクちゃん

 ベトちゃん・ドクちゃん 昭和61年(1986年)

 昭和55年に誕生したベトナムの双生児、ベトちゃんとドクちゃんは、2つの身体がつながった結合体双生児として日本でも有名であった。1つの身体に2つの頭を持つ奇形は、ベトナム戦争で米軍が用いた「枯れ葉剤」によるもので、ベトナムでは結合体双生児が多く生まれていた。

 通常、結合体双生児は育たないとされる。そのため7歳を迎えたベトちゃんとドクちゃんは枯れ葉剤被害の象徴的存在となった。そのベトちゃんが、昭和61年5月下旬に脳炎に罹患し、そのためホーチミン市から日本赤十字に人道的立場から救助を求める連絡が入った。当時のベトナムは貧しく、病院には医療器具がそろっておらず、大がかりな手術や治療ができる状態ではなかった。

 ホーチミン市が日本に助けを求めたのは、ベトちゃんの治療だけでなく、もしベトちゃんが死亡したら、ドクちゃんの生命までも危ぶまれたからである。ベトちゃんの病状が悪化したときに備え、ベトちゃんとドクちゃんの分離手術を念頭に置いての要請であった。

 6月12日、日赤から4人の医療チームが薬品・医療機器を携えホーチミン市に向かった。ベトちゃんは、意識不明の昏睡状態であった。6月19日、日赤医療チームは日航特別機でベトちゃんとドクちゃんをベトナムから日本に搬送し、東京・広尾の日赤医療センターに入院させた。

 医師団による懸命な治療が功を奏し、7月14日、日赤医療センターは昏睡状態だったベトちゃんが、危篤状態から脱したと発表した。ベトちゃんは、集中治療室で食事が取れるまでに回復した。

 日赤医療センターとベトナムの医師団は記者会見を行い、「2人の生命を救う、という本来の使命は十分に達成された」と発表したが、焦点となっていた分離手術は見送られた。

 ベトちゃん・ドクちゃんの支援を続けていた全国保険医団体連合会など医療5団体の代表は、東京・渋谷区のベトナム大使館を訪れ、全国から集めた寄付金708万4000円をゴック駐日大使に手渡した。

 日本の代表は、「日本全国の子供から大人まで、ベトちゃん、ドクちゃんがいつまでも元気でいることを祈っています」と述べ、ゴック駐日大使は「みなさんの厚いご支援に深く感謝しています」と答えて固い握手を交わした。

 日赤医療センターで治療を受けていたベトちゃんらは、見違えるほど元気になり、10月29日、成田発の日航機で4カ月ぶりに帰国。退院時にはセンターの正面に100人近い報道陣が詰めかけ、各病棟の窓からも入院患者が手を振り別れを惜しんだ。

 ベトちゃんらが治療を受けていた8月2日、同行して来日していたベトナムの女医グエン・チ・ソン・ファットさん(49)が米国に亡命するハプニングが起きた。患者を残しての医師の亡命は、関係者に何ともいえない衝撃を与えた。

 結合双生児はベトナム戦争で米軍が使用した枯れ葉剤による先天性奇形とされている。ベトナム戦争で、解放戦線の執拗(しつよう)なゲリラ戦術に手を焼いた米軍は、飛行機から大量の「枯れ葉剤」をまく作戦に出た。ジャングルを枯れさせて、隠れているベトコンを暴き出そうとした。

 ばらまかれた枯れ葉剤の総量は、6690万リットルに達した。枯れ葉剤が散布された地区では、24時間以内に葉が枯れ落ち、6週間以内に木が枯れた。当時、米軍は枯れ葉剤の人体への影響はないと考えていた。そのため、米兵の頭上からも枯れ葉剤がまかれ、散布直後のジャングルでも米軍は作戦を遂行していた。

 しかし枯れ葉剤には、不純物として猛毒のダイオキシンが含まれていた。ダイオキシンは、細胞をがん化させる作用、胎児への催奇形作用があった。ベトちゃんとドクちゃんだけでなく、ベトナムでは枯れ葉剤による奇形児が数多く生まれていた。

 奇形としては無脳症・無眼球症・四肢奇形・唇裂口蓋裂などが多かった。当初、ダイオキシンは20年で消失するとされていたが、枯れ葉剤を浴びた者の孫の世代になっても、1%の頻度で奇形児が生まれている。

 また被害はベトナム人だけでなく、米軍の帰還兵にも皮膚病・神経症・がんなどの後遺症をもたらした。米政府は枯れ葉剤被害の事実を認め、ベトナム帰還兵の12%に当たる37万人に補償金を出した。一方、ベトナム人の被曝者については、謝罪や補償を行わず、損害賠償の訴えも却下している。

 昭和63年10月4日、ホーチミン市のツーズー産婦人科病院でベトちゃんとドクちゃんの分離手術が行われた。手術を担当したのはグエン・チ・ゴク・フォン博士で、2人が共有している小腸・大腸部分などを切り離し、切り口を縫合する手術は16時間半に及んだ。右足はドクちゃんに、左足はベトちゃんに分離された。

 手術後、ドクちゃんは比較的元気だったが、ベトちゃんは不安定な状態が続いた。ツーズー産婦人科病院では、フォン博士を中心に術後の特別態勢が取られた。その結果、2人とも順調に回復し手術は成功した。この分離手術には、日本の荒木洋二医師が立ち合っていた。

 その後、2人は同病院の敷地内に母と姉と一緒に住むことになった。結局、ベトちゃんは寝たきりになってしまったが、ドクちゃんは2本の松葉づえを上手に使い、サッカーができるまでになり、現在は自立して元気に働いている。

 枯れ葉剤は、幾多の悲劇をベトナムにもたらした。この枯れ葉剤は太平洋戦争時に日本に対しても、使用されることになっていた。原爆投下時、枯れ葉剤はすでに量産されており、米国は原爆ではなく、枯れ葉剤を使用する選択もあった。もし、日本がポツダム宣言を受け入れず、本土決戦となっていたら、日本にも枯れ葉剤が大量に散布されていた。

 日本の支援者に、1通のうれしい手紙が届いた。それは、25歳となったドク青年の結婚式への招待状だった。同国の専門学校生(24)と結婚するという。