ヘンリー・ダーガー

ヘンリー・ダーガー(1892年〜1973)
 ダーガーは世界一長い物語「非現実の王国で」の作者である。誰に見せるわけでもなく19歳から81歳まで書き続けた。半世紀以上もの間、たった一人で作品を書き続けたのである。死の直前にそれが発見され、アウトサイダー・アートの代表的作家として評価されている。アウトサイダー・アートとは伝統的な訓練を受ず、名声や富を目指すでもなく、既成の芸術の流派や傾向にとらわれない芸術をいう。もちろん生前のダーガーは、一度もアーティストを意識したことはなかった。

 ヘンリー・ダーガーは1892年にシカゴで、ドイツ系移民のもとで生まれ、4歳直前に母と死別。妹は里子にだされ、足の不自由な父に育てられる。読書が好きで小学校1年から3年に飛び級をしている。

 8歳時、父親が体調を崩したため救貧院に入りカトリックの少年施設で過ごすが、友達とコミュニケーションがうまくとれなかった。口・鼻・喉を鳴らして奇妙な音を立て、級友たちを楽しませようとした」などの変わった癖があり、同級生たちから反感を買い「クレイジー」というあだ名で呼ばれていた。いじめられたダーガーは、12歳になると精神薄弱児収容施設に移されます。当時の施設である。虐待や陰湿な体罰・放置による入所者のケガや事故、または遺族の許可なく実施した入所者の遺体処理や解剖などで、スキャンダルが発覚しています。

 15歳時に父が死去し、ダーガーは16歳でこの施設を脱走し260kmを歩いてシカゴに戻り、聖ジョゼフ病院の作業員として働き始める。19歳の時「非現実の王国で」の執筆を開始。ダーガーは孤独の中に生きており(生涯、童貞だったとされる)、職場である病院と教会のミサに通う他は、自宅アパートに引き籠っていた。

 人と全くコミュニケーションを取ろうとせず、話をするときも天気以外の話は絶対に喋らず、部屋で複数の人間の声色を真似て一人語りして、いつも汚い浮浪者のような格好をしていた。孤独な変わり者だった。本業の作業員の仕事は、55歳になるころには体力の衰えから皿洗いも難しくなり、厨房での野菜の皮むきなど、軽作業の仕事に従事する。そして71歳からは社会保障を受けての生活となる。病気のために衰弱し救貧院に入るが、その際、アパートの大家ネイサン・ラーナーに持ち物の処分を問われ、その時、ダーガーは物語の存在を明かさず「全部、捨ててくれ」と答えている。1973年、81歳のときにダーガーは亡くなる。

 ただの変わり者の老人と思われていた。貧しい老人の孤独な死。本来であれば歴史から忘れ去られていたであろう。しかし自分の部屋の中に「自分だけの王国」を築いていたのである。

 大家のラーナーがダーガーの死後、雑然としたダーガーの部屋に入ると、部屋は大量のスクラップ、切り絵の紙、拾い集めた新聞などで埋め尽くされていた。

 1972年、大家のラーナーが生涯孤独に暮らしてきたダーガーの部屋から「非現実の王国で」と名づけられた長編小説とその挿絵を発見したのである。正式なタイトルは「非現実の王国として知られる地における、ヴィヴィアン・ガールズの物語、子供奴隷の反乱に起因するグランデコ─アンジェリニアン戦争の嵐の物語」で、300枚の挿絵と1万5,000ページ以上のテキストからなる物語であった。発見した大家はアーティストであった。ダーガーは持ち物の焼却処分を頼んでいたのだから、それらが作品という概念はなかった。しかし大家は残された作品を見て、その価値を直感したのである。もし大家がアーティストでなかったら、それらの作品は無造作に捨てられていただろう。

 その物語は次のように、「グランデリニア」とよばれる、子供奴隷制を持つ軍事国家と、「アビエニア」とよばれるカトリック国家との戦争が描かれている。アビエニアを率いる7人の少女戦士、ヴィヴィアン姉妹が主人公で、彼女たちは何度も敵に捕まるが勇気と機転で抜け出し最後には勝利する。またダーガー自身がアビエニア軍の将軍などとして登場する場面もある。

 15,000ページ以上におよぶ大作で、長過ぎるため読破した人間はほぼ皆無で、テキスト全文が刊行されたこともない。ダーガーはテキストを15冊の冊子にまとめており、最初の7冊に自身の手で装丁、製本を施している。残りの8冊は紐で縛ったままで、物語の結末はその未製本の冊子の中に描かれていた。

 小説「非現実の王国で」のために描かれた300枚を超える挿絵は、全てダーガーの手によって描かれている。巻物のようになっているものも多い。その多くはストーリーの一場面を描いた通常の挿絵であるが、中には該当する箇所がみつからないものもある。その壮大な物語に描かれているのは大勢の少女たちである。ある時は陽気にはしゃぎ、ある時は兵士と戦い、またある時は翼を持った幻想的な生き物に助けられる少女たちの絵であった。

 美術教育を受けていないダーガーは、挿絵を付ける際にゴミ捨て場などから拾った雑誌・広告などからの切り抜きを多用した。主人公の少女たちはしばしば裸で描かれ、残虐な拷問や殺戮の対象となっている。また小さなペニスが描かれており、これにはダーガーが女性の裸を見たことがなかったためといわれている。ただしペニスのない少女も多く、「戦闘に向かう少女の男性的攻撃性を表現したため」、「あくまで空想としての理想を描いたため」など諸説あるが、真相は明らかではない。

 1973年4月13日、救貧院にて死去。ラーナーはダーガーの死後も部屋をそのままの状態で、2000年まで保管されていた。現在は移設された場所で博物館としてテキスト原文と共に公開されている。

 彼の姓は「ダージャー」と日本語表記されることもあるが、実際のところ「Darger」の正しい発音すら判明していない。会話を交わしたことのある数少ない隣人も、それぞれ異なる発音で彼を呼んでいた。彼の作品(物語・ 自伝・絵画)については、映画「非現実の王国で ヘンリー・ダーガーの謎」で知ることができる。映画は、生前のダーガーを知る人物へのインタビューと本人の自伝を組み合わせているが、本人の姓の正しい発音や、何故作品を書き始めたのかなどは不明である。

 他人とまったくコミュニケーションをとることがなかった孤独な老人にとって、この物語の世界こそが彼の存在意義だったのだろう。

 

「信じられるだろうか。私は多くの子供と違い、いずれ大人になる日のことを考えるのが嫌で仕方がなかった。大人になりたくなかった。いつまでも子供のままでいたかった。今や私は年をとり、脚の不自由な老人だ。なんてことだ」これが、ダーガーが残した言葉である。