フィリッポ・リッピ

フィリッポ・リッピ(1406年〜1467年)

 アンジェリコとともに、初期ルネサンスの画家として、盛期ルネサンスの天才画家レオナルド・ダ・ヴィンチやラファエロに大きな影響を与えた。ボッティチェリの師であった。

 フィレンツェの下町の肉屋に生まれ、幼くして孤児になったリッピはカルメル会の修道院で育てられ、修道士となった。幼少期から周囲の手を焼かせる勉強嫌の腕白で、そのため彼を育てた修道士は彼を絵の道に進ませた。

  1452年、フィレンツェの北西20キロにあるプラートの大聖堂の壁画の制作を依頼され、1464年頃までこの仕事に携わっている。洗礼者ヨハネ伝と聖ス テファノ伝を主題としたこの壁画は現存し、リッピの代表作と見なされている。初期の作品にはゴシック風の堅さがあるが、やがて現実感のある空間・人体表現 が現われる。聖母像などに見る甘美な女性像はリッピの特色である。

 修道士という立場であったが、女好きで奔放な性格で知られている。アン ジェリコが敬虔な修道士であったのとは対照的に、リッピは何人もの女性と浮名を流している。50歳の時、修道院の23歳の修道女ルクレツィアを祭礼の混雑 にまぎれて誘い出し自宅に連れ去った。2人の間に息子フィリッピーノ・リッピが生まれていが、このことが問題になり、リッピは告発されて修道院に出入り禁 止となった。しかし、芸術家に援助を惜しまなかったメディチ家の当主のとりなしで、教皇から正式に還俗を許され正式の夫婦になった。リッピの描くマリアや サロメのモデルはルクレツィアとされている。

 リッピの描く作品は世俗的な人物描写が見られ、それが返って宗教画に生き生きとした現実感と リアリティーをもたらした。1467年、壁画制作のためイタリア中部のスポレートに妻子を伴って移り住み、2年後、壁画の完成を見ずに同地で没した。今日 では同時代の画家としては弟子のボッティチェリの方が有名であるが、19 世紀にボッティチェリが再評価されるまでは、リッピの方が断然有名だった。