ピシバニールとクレスチン

ピシバニールとクレスチン 昭和64年(1989年) 

 昭和50年にピシバニール(中外製薬)が、昭和51年にクレスチン(呉羽化学工業/現クレハ)が、厚生省から抗がん剤としての製造販売の認可を得た。この抗がん剤は、直接がん細胞をたたく化学療法剤ではなく、患者の免疫力を高め、それによってがんを排除しようとする免疫療法の薬剤である。そして発売と同時に、この抗がん剤は異常なほどの売り上げを伸ばしていった。

 ピシバニールは、溶血性連鎖球菌をペニシリンで処理した注射用の抗がん剤である。副作用として発熱などがあったが、重篤な副作用はまれであった。年間売り上げ340億円、抗がん剤として第3位であった。

 一方のクレスチンを開発した呉羽化学工業は、あのクレラップ(家庭用ラップフィルム)を販売している会社で、それまで医薬品開発の経験はなく、初めて開発した薬剤がクレスチンであった。クレスチンはカワラタケというキノコから抽出した糖タンパクで、深刻な副作用がほとんどないのが特徴であった。胃、大腸、乳がんなどに有効とされ、内服薬という便利さもあって、医薬品の中の超ベストセラーとなった。昭和63年にクレスチンの年間売り上げは全医薬品中の第2位(630億円)に下がったが、その前年までの6年間(昭和57〜62年)は、1位の座を守っていた。

 ピシバニールとクレスチンがこれほど売れたのは、他の抗がん剤には重篤な副作用があったのに、両剤にはほとんど副作用がなかったからである。末期がんと分かっても、治療法がないというのは残酷なことである。たとえわずかでも望みを持ちたいと思う患者に、医師は何らかの薬剤を投与して、少しでも安心させようとした。

 そのため副作用のほとんどない、しかも抗がん剤として国が認めたピシバニールとクレスチンは、医師にとって気楽に処方できる薬剤だった。手術でがんを100%切除しても、念のためとピシバニールやクレスチンを投与していた。もっとも当時、がんに有効な抗がん剤は、悪性リンパ腫などの血液疾患のがん、あるいは卵巣がんなどごく限られていた。

 これほど広く使用されたのだから、ピシバニールとクレスチンが、がん患者にとってそれ相応の効果があったはずである。しかし両剤とも抗がん作用はほとんどなかったのである。平成元年12月に、厚生省はこの2つの抗がん剤について効能性を限定する答申を出した。つまりピシバニールとクレスチンを単独で使用した場合、がんに効果なしとしたのである。そのため、両剤の使用をほかの化学療法剤との併用のみに限定したのだった。

 発売以来、両剤は累積1兆円を上回る売り上げを記録していた。本来、薬剤の売れ行きはその効果と比例するはずである。また人類への貢献度に比例して値段が設定されるはずである。かつて効果のあるとされた抗がん剤が、なぜ無効となったのか。効果のない薬剤が、なぜこれほどの売り上げを伸ばしたのだろうか。

 両剤は、がんに有効とする数十編の論文が販売認可の根拠となっていた。しかしいずれの論文も薄っぺらなもので、掲載されたのも三流の医学雑誌で、とても世界に通用するものではなかった。さらに論文は製薬会社がスポンサーになっている商業雑誌に掲載されたものが多かった。世界の一流医学雑誌に論文が掲載されていないことは、第三者の検証を受けていないことを意味していた。しかし三流誌であっても、論文に名を連ねていたのが日本のがんの権威者たちであった。

 もしこれらの薬剤ががんに有効ならば、世界中の医師が使用するはずであるが、ピシバニールとクレスチンは日本だけであった。両剤が承認された時から、その抗がん作用が疑問視されていたのである。

 薬剤の認可は中央薬事審議会の審議で決められるが、クレスチンを審議した委員の中には、クレスチンを有効とする論文を書いた医師2人が含まれていた。権威だけの学者の言葉を信じ、抗がん剤を認可した厚生省にも問題があった。がんの権威者は財団をつくり、製薬会社から億単位の寄付をもらっていた。

 がんは不治の病なので、抗がん剤が開発されれば製薬会社には、莫大(ばくだい)なカネが転がり込んだ。当時、抗がん剤は「がんには効かないが、株には抜群に効く」とされ、抗がん剤の開発が噂されるたびに株価が暴騰した。