ヒエロニムス・ボス

ヒエロニムス・ボス(1450年〜1516年)
 ルネサンス期の画家で、北方ルネサンス(アルプス以北のルネッサンス)に属すると同時にオランダとベルギーで活躍したことからフランドル派にも分類されている。

 ヒエロニムス · ボスはオランダとベルギーの国境近くにあるアーヘン出身で、父親、祖父、兄が画家で、さらに3人のおじが画家であった。このように画家一族の子供として生まれた。

「ヒエロニムス」は本名のラテン語読みで、絵画作品にはボス(Bosch)とサインしている。ボスの由来はアーヘンのデン・ボスで生まれたことで、生涯この地を離れずに住んでいた。

 生前の史料に乏しく、その生涯は不明な点が多いが、父のもとで絵画の修行をおこない、資産家の家の娘と結婚し、キリスト教の熱心な友愛団体「聖母マリア兄弟会」に所属し、名士として活動しながら「聖母マリア兄弟会」の依頼で絵画の制作を行っていた。

 ヨーロッパ各地の王侯貴族たちの依頼に応じ、多くの作品を描いている。特にスペインのフェリペ2世はボスの絵画の熱烈な愛好者で、そのためマドリードに傑作の多くがある(現在10点がプラド美術館蔵)。しかし、ボスの多くの作品が16世紀の宗教改革運動の偶像破壊で紛失しており、現在ではわずか30点ほどの作品が残されるのみである。また一部の作品には後補や修正の跡があり、さらに後世の模作もあり、真贋の判別が困難な作品もある。

 ボスの特徴は「人間の本性的な罪悪を、悪魔的な怪奇性と幻想性に富んだ様式で表現し、独自の道徳観、宗教観によって社会への風刺や批判をしたこと」である。作品の題材としては「人間の愚かさ」つまり人間の傲慢さ、愚か、貪欲、罪と罰などに焦点が当てられ、なんんと言っても怪奇性と幻想性である。

 悪魔的な想像から異教徒的思想(キリスト教以外の宗教)を指摘されることがあるが、敬虔で厳格な「聖母マリア兄弟会」に属し、当時のカトリックの王侯貴族たちが競って依頼して収集したことから、悪魔的表現はむしろ個人的趣味の世界による。発想が柔軟で、その独特の世界観はどの画家にも類似性がない。さらに彼の生涯だけを見ると、ヒエロニムス · ボスはまさにキリスト教徒の模範とも言える人生であった。


快楽の園
1510-15年頃 220×389cm | 油彩 板 |
マドリード、プラド美術館

 キリスト教会でよく見られるトリプティク(三連祭壇絵)である。左右の扉は普段は閉じられ、礼拝時などに開かれる。閉じた状態では扉の外側に描かれたモノクロの「天地創造(下図)」しか見られない。外側に描かれた「世界の創造」は、天地創造の3日目を表し、海と陸に隔てられた地上に生物がまだ存在していない。扉には次の碑文が刻まれている。「神は言われた。するとそのようになった」そして「神は言われた。するとすべてが創造された」の2つである。

 この絵画は、北方祭壇絵の伝統に基づいた形式で描かれているが、この絵が祭壇上に置かれたという記録はない。多分、宮廷での観賞用に制作されたのだろう。

 扉を開くと極彩色の「快楽の園」が見える。細部にはみたこともない奇妙な生物たちがうごめいている。思わず目を凝らして見てしまうほどである。

 左扉は「楽園のアダムとイブ(過去)による原罪」を表し、中央部分は「一糸纏わぬ男女が入り乱れ、地上の楽園に溺れる人々の淫欲の罪(現在)」を表している。さらに右扉は「淫欲の罪を犯し、地獄に落ちた人々(将来)」が描かれている。それらは、人間の醜い面や愚かしいことに対してのボスの痛烈な皮肉であった。

 ボスの屈指の作品であるが、この「快楽の園」を「性的な秘儀を重視する異端的作品」とするのか「人間の愚行と、罪の告発、断罪が目的」とするのかなどが議論されている。しかし妖怪と言えどもユーモアがあり、また原罪の告白や断罪は、それを告白や断罪するほどの深刻さがない。

 アダムとイムの原罪から、現在の愚かな快楽にふける光景、そして地獄というように、人間はどのように説教しても罪を改めようとしない、どうしようもない存在、と軽く人間の世界を皮肉っているのだろう。ボスは悪魔的なクリエイターと呼ばれているが、可愛いらしい奇怪な妖怪や奇妙な動物に、思わず微笑んでしまう。つまりは厳格なキリスト教社会の息抜きだったのではないだろうか。

快楽の園(中央部分)


 三連祭壇絵の中央図では現世の罪深い偽りの楽園が描かれている。ひたすら生命の歓喜や快楽を求め、繁殖に励みながら罪と堕落を築き上げた現在の人間の様子である。裸体の人物、空想の動物、巨大な果実などが描かれ、広大な人間の世界を万華鏡のように見せている。取り憑かれたように快楽に浸る人間たち。巨大な果実を求め、生命の泉の周りを永遠に周り続ける。これらの歓喜は罪への隠喩に過ぎず、人類が様々な世俗的快楽に没頭している姿を現している。人間の欲望に終わりはないことを皮肉っている。


エデンの園(左扉)

 神が生まれたばかりのイヴをアダムに引き合わせ、娶らせる真実の楽園が描かれている。アダムがイブの美しさに心を奪われているように描かれている。しかしアダムもイブも人形のように描かれ、性を感じさせない。

地 獄(右扉)

地獄の様子である。拷問を受ける罪人などが描かれている。楽器の一部となった裸体の人物や、巨大な刃物、排泄、火災などが描かれている。中央には胃袋のなかに白い頭が覗いて見える。虫メガネで食い入るように見つめたくなる。


ヒエロニムス・ボス作 快楽の園(閉扉時) -世界の創造-

 トリプティックの扉を閉じるとこのようになる。父なる神が創造する「世界の創造の第3日目」が描かれている。2つの扉上部には、次の碑文が刻まれている。「神は言われた。するとそのようになった」そして「神は言われた。するとすべてが創造された」。


最後の審判
1510年以降 164×247cm | 油彩・板 |
ウィーン美術アカデミー付属美術館

 最後の審判に描かれているのは、復活を遂げた神の子イエスが、全ての死者を復活させ、人類を善と悪に裁き、天国と地獄に導く。両翼の裏に描かれるのが十二使徒のひとり「使徒ヤコブ」と「ヘントの聖パヴォ」である

七つの大罪と四終

 テーブル画として描かれた円形画で、中央に主イエスが、中央の大きい円にキリスト教における「七つの大罪」、周囲の4つの小さな円には右上から時計回りに「最後の審判」、「天国」、「地獄」、「死」が描かれている。ボスの熱烈な愛好者であったスペイン国王フェリペ二世が所蔵し、エル・エスコリアル宮殿に飾られていた。

 キリスト教における七つの大罪とは「憤怒」、「嫉妬」、「貧欲」、「大食」、「怠惰」、「淫欲」、「傲慢(虚栄)」である。主イエスの真下には「憤怒」として争う人間を、その左には2匹の犬が骨を奪い合うフランドルの諺を引用し「嫉妬」を、その左には権力者である裁判官の収賄場面から「貧欲」を、さらにその隣にはテーブルに溢れる食物を貪る大男の姿で「大食」を、教会へ向かう正装した女性が眠り耽る男を起こす場面で「怠惰」を、二組の男女が音楽や道化と戯れる姿で「淫欲」を、悪魔に与えられた鏡と向き合う女性の姿で「傲慢(虚栄)」を表している。この「七つの大罪」の上下には、旧約聖書の「申命記」から訓戒的な引用文「彼等は思慮に欠ける民、洞察する力がない。もし彼等に知恵があれば悟るだろう。自身の行く末も悟ったであろう。(上部)」、「わたしは、わたしの顔を隠し、彼等の行く末を見守ろう。(下部)」と記されている。

「患者の石の切除」は「愚者の治療」や「いかさま」とも呼ばれ、描かれるのは、当時ネーデルランドで流布した寓話で、本来あるはずのない頭の中の石は大衆の無知や愚かさを意味し、大衆の無知や愚かさを利用して利を求める打算に満ちた医師は、高い教養者と社会のモラルの欠如を示している。上部の銘文「Meester snyt die Keye ras, myne Name is Lubbert, das.」は一般的に「先生、早く頭の中の石を切除してください。私の名前はルツベルト・ダスです」と解釈される。その様式から本作をヒエロニムス・ボスの初期作品との見解が多い。

十字架を担うキリスト
1515-16年頃 74×81cm | Oil on panel |
Museum voor Schone Kunsten

 主題はエルサレムで捕らわれたキリストがユダヤ人から愚弄され、さまざまな辱めや暴力を受けるキリストの嘲弄の一場面で、 善であるキリストの姿と、悪であるユダヤ人の対比を、容貌によって巧みに描き分けた。

地獄・呪われた者の墜落
 1500-04年頃 各87×39cm | 油彩・板 |
パラッツォ・ドゥカーレ(ヴェネツィア)

 この作品の意図や目的は不明であるが、「地上の楽園、祝福された者の楽園への上昇、地獄、呪われた者の墜落」の四場面のみで構成される二連祭壇画とする 説が一般的である。また一部の研究者から「終末論」の関与も指摘されている。図像的には、新約聖書に記される最後の審判によって 罪深き存在として断罪された者が地獄へと落ちてゆく場面「呪われた者の墜落」と、審判者イエスによって断罪された者が落され、悪魔から永遠の苦痛を強いら れる地「地獄」が描かれている。ヒエロニムス・ボスの特徴である異色で奇怪な世界観が表現が示されているが。罪人の姿や地獄の描写がより鮮明に反映されて いる。陰惨で暗く 沈み込む場面と、それを映し出す恐々と燃える炎の描写が特異的である。


地上の楽園・祝福された者の楽園への上昇
1500-04年頃
各87×39cm | 油彩・板 |
パラッツォ・ドゥカーレ(ヴェネツィア)

 本作品の制作意図や目的は不明である。おそらくは旧約聖書をもとに、父なる神が最初の七日間で形成した世界 を表した「地上の楽園」と、天使たちによって幸福が約束された地へ導かれる「祝福された者の楽園への上昇」のニ場面が描かれており、いずれもボスの思想的表現が認められる。特に「地上の楽園」の画面下部に描かれる起立を促す天使を信用していない人間の未熟な精神性(信仰心)や「祝福された者の楽園への上昇」での未知なる地への恐れを抱く人間の表現にそれが示されている。また「祝 福された者の楽園への上昇」に描かれた楽園へ続く円筒形の光のトンネルも本作において特筆すべき点のひとつである。

放蕩息子
円形パネルに油彩 直径71.5cm 
ロッテルダム、ボイヒマンス・ヴァン・ボイニンゲン美術館

 男は売春宿のそばを通り抜け、牧場に通じる柵へ進もうとするが、男はいま通り過ぎてきた建物を未練がましく振り返っている。牧場へと進むか引き返すか、悩んでいるのが伺われる。背後の建物が売春宿であることは、扉口で男女がいちゃついていること、屋根にビールのジョッキを掲げ、酒が飲めることをアピールしていること、女が顔をのぞかせて男を勧誘しているところなどから推測される。
 ボスはこの絵をルカ伝第15章の「放蕩息子」に基づいて描いたとされるが、その中で主人公の放蕩息子は、放蕩の限りを尽くしたのち、自分の家に戻り、父親から暖かく迎えられることになっている。しかしボスはこの絵で、父親との再会より、放蕩生活への未練を前面に押し出している。