ドーピング

ドーピング 昭和63年(1988年)

 昭和63年にソウル・オリンピックが開催され、この大会で最も注目されたのは陸上男子100メートル決勝であった。カール・ルイス(米国)が勝つのか、ベン・ジョンソン(カナダ)が勝つのか世界中が注目した。

 レースが始まるとベン・ジョンソンは得意の「ロケット・スタート」で飛び出し、9秒79という驚異的な世界新記録で優勝。ところが優勝から3日後、世界中が国際オリンピック委員会(IOC)の発表に驚かされた。IOCはベン・ジョンソンからスタノゾロール(アナボリック・ステロイド=筋肉増強剤)が検出されため、優勝者ベン・ジョンソンの金メダルを剥奪するとしたのだった。この事件は、ドーピングという言葉を世界中に印象付けた。五輪史に残る大スキャンダルを起こしたベン・ジョンソンは、その5年後の競技会でも同じ筋肉増強剤を用いて陸上界から永久追放となった。IOC医事委員会はベン・ジョンソンの他にも薬剤を使用していた選手が約50人いたことを公表した。

 さらに平成6年の広島アジア大会で、中国の競泳選手による大量ドーピング事件が発覚し多くの人たちを驚かせた。ドーピングとは競技能力を高めるために薬物を使用することで、その目的は競争に勝つことである。フェアプレーに反しても、健康を害しても、勝ちたいという欲望がそれを打ち消してしまうのである。勝てば名声が残り、賞金やコマーシャル出演などの収入にも結びついた。

 ドーピングの歴史は人間の戦いの歴史と重なっている。戦いの時に勇気を鼓舞するために、さまざまな工夫がされてきた。ドーピングはこの戦うための工夫を、競技に勝つための手段に変えただけである。そのため、ドーピングには精力剤としてキノコや野草のエキス、さらに麻薬を使用していた歴史があった。

 昭和35年のローマ・オリンピック大会で、デンマークの自転車選手が、アンフェタミン(興奮剤)を乱用し1人が死亡、2人が入院した。これが、オリンピックで初めてのドーピングの犠牲者だった。8年後の昭和43年のグルノーブル冬季オリンピックから、ドーピング検査が導入され、当時の対象薬剤は、興奮剤や麻薬など30種類であった。

 その後、ドーピングの対象薬剤は増え、現在では150種類の薬剤が指定されている。検査によって使用が確認されると、3カ月の資格停止から永久追放までの処分を受けることになった。治療のために、薬物を服用している場合は、事前に申請すれば処分の対象外になるが、治療のためであっても本当かどうかの判別は難しい。

 例えば感冒薬を飲むと、その成分であるエフェドリンが検出されることがある。また、漢方薬の麻黄(マオウ)にもエフェドリンが含まれており、葛根湯(かっこんとう)を飲んだ選手が失格になった例がある。

 ドーピングで禁止されている薬剤として有名なのは、カナダのベン・ジョンソンが用いたアナボリックステロイドである。

 病気の治療として用いるステロイド剤は副腎皮質ホルモンであるが、アナボリックステロイドは「タンパクを筋肉に変える作用を強化するために合成されたホルモン」で男性ホルモンに似た物質である。

 ソウルオリンピックで初めてアナボリックステロイドが検出可能になったので、ベン・ジョンソンが失格となったのである。アナボリックステロイドには、肝機能障害・性ホルモン異常などの副作用が知られているが、多くの選手が使用していた。

 また利尿剤は一般に心不全、腎臓病などの治療に広く用いられているが、利尿剤もドーピングに相当し禁止薬剤となっている。利尿剤はレスリング、柔道、重量挙げなど、体重クラス別の競技において減量目的に用いられていた。ソウルオリンピックでは利尿剤を用いた柔道や重量挙げの選手4人が失格している。

 さらにドーピングとして頻脈性不整脈や高血圧症の治療に用いる、β遮断薬(ベータブロッカー)も使用されていた。β遮断薬はアドレナリンの心臓刺激作用を遮断し、交感神経の興奮を鎮める作用がある。そのためβ遮断薬は緊張からくる心臓のドキドキ感や手の震えを抑制する効果があり、射撃やアーチェリーなど集中力が要求される競技者に用いられていた。余談であるが、医師が学会などで発表する際に、「あがり防止」のためβ遮断薬や精神安定剤を用いることが流行したことがある。

 ドーピングの検査は、選手から採取した尿と血液をそれぞれ2つの容器に分け、片方の検体から禁止薬物が検出された場合、選手はもう片方の検体を使っての再検査を要求できる。両検体から同じ薬物が検出されれば、陽性とされる。

 現在ではドーピングでの使用禁止薬剤が知れ渡っているため、処分を受ける例は少なくなっているが、手段がより巧妙化していることも確かである。例えば、筋肉増強剤である合成ステロイドが検出されれば「不正行為」であるが、天然ホルモンを使用すれば不正を証明することは困難になる。

 このほかのドーピングとして「血液ドーピング」がある。これは競技の数カ月前に自分の血液を抜き、競技の直前に自己血を輸血して、赤血球を意図的に増やすことである。酸素運搬の役割をする赤血球を増加させれば、持久力が高まり、高地トレーニングと同じ効果を人為的にもたらすためである。

 さらに平成6年のツール・ド・フランスでは、エリスロポエチンの使用が発覚した。エリスロポエチンは腎臓でつくられるホルモンの一種で、赤血球を増加させる作用がある。エリスロポエチンは腎不全による貧血の改善薬として開発された。しかしこれを用いて血液濃度を高めると、血栓ができやすく、心筋梗塞などを引き起こす可能性が高くなるとされている。

 平成8年のシドニーオリンピックから、エリスロポエチンの使用を検出する血液検査が実施されるようになった。これまでのドーピングは、化学物質を用いていたが、スポーツ界では今後、遺伝子操作が問題になるであろう。ドーピングは使用する者と検査側のいたちごっこといえる。