エイズパニック

エイズパニック 昭和62年(1987年)

 神戸に住む独身女性のA子さん(29)が体調不良を訴えたのは、昭和61年7月のことであった。下痢や全身のだるさに加え、体重が急激に減少し、9月になると咳や発熱が続くようになり、呼吸苦を訴えるようになった。

 A子さんは市内の病院に入院。入院時の胸部レントゲンで、両肺にびまん性の陰影が認められた。医師はA子さんの病気を肺炎と診断、抗生剤による治療を開始した。しかし抗生剤を投与しても改善せず、主治医は結核の可能性も考え結核の治療も行った。しかし病状は悪化するばかりだった。

 胸部レントゲンから肺炎の診断は確実であったが、A子さんは危険な状態に達したため、神戸市立中央市民病院に転院して治療を受けることになった。中央市民病院でも肺炎の原因が分からず、起因菌を調べるため肺の一部を採って調べる検査(肺生検)が行われた。その結果、A子さんの肺からニューモシスチス・カリニが検出されたのである。

 A子さんの肺炎はカリニ肺炎と呼ばれるもので、ニューモシスチス・カリニという原虫が肺に寄生して起きるものだった。カリニ肺炎は珍しい肺炎で、健康人が発病することはなく、身体の抵抗力が落ちた患者にのみ感染するとされていた。主治医はカリニ肺炎の治療薬バクターを投与したが効果はなく病気は進行していった。

 A子さんの主治医は、偶然にもエイズ治療の研修を受けていてその知識を持っていた。主治医はエイズを念頭に検査を行った。そしてカリニ肺炎とT4リンパ球の低下という2つの特徴から、エイズの可能性が浮かび上がったのである。A子さんの血液を鳥取大医学部ウイルス教室の栗村敬教授に送くり、検査の結果、12月25日にエイズと診断された。A子さんの主治医が、エイズの研修を受けていたので、偶然にも診断できたのである。一般の医師であれば診断は困難であった。

 昭和62年1月17日、厚生省(当時)エイズサーベランス委員会(委員長=塩川優一・順天堂大名誉教授)は、わが国初の日本人女性エイズ患者が神戸市で発生したと発表した。国内では26人目のエイズ患者であったが、異性から感染した女性は初めてだった。この発表は、いよいよエイズが日本へ上陸したと、全国に大きな衝撃を与えた。そしてこの発表から3日後の20日午前9時、A子さんは治療のかいもなく死亡した。直接の死因はくも膜下出血であった。

 A子さんがエイズと診断された日には、口も利けないほどの重症になっていた。そのため、医師が筆談で事情を聞いたが詳細は不明であった。それでも7年前の22歳の時に2年間ギリシャ人船員(37)と同棲していて、ギリシャで生活をしていたことが分かった。この船員に同性愛の疑いがあったため、船員からエイズが感染したと考えられた。エイズの潜伏期は5年から10年でで、同棲時の感染とすれば、発症までの期間は理屈に合っていた。

 A子さんは発病するまで神戸の繁華街のスナックでアルバイトをしており、三宮や元町の外国人バーに出入りしていた。週刊誌は、街で不特定多数の男性を相手に売春をしていたこと、外国人を含む100人以上の男性と性行為を続け、少なくとも4人の男性と同棲していたと書いた。身に覚えのある男性たちにとって、不治の病エイズの恐怖が降りかかってきた。エイズ汚染が自分だけでなく家庭にまで広がっている可能性があった。

 神戸の街はパニック状態に陥った。神戸市の「エイズ対策本部」は、兵庫県警に協力を求め、この女性と親しかった男性を特定し、血液検査を受けるように指導したが、ほとんどの男性は採血を拒否したのだった。兵庫県・神戸市の対策本部は、「速やかに検査を実施し、住民の不安を取り除くべし。なぜ採血をしないのか判断に苦しむ」と半強制的検査を示唆した。しかしA子さんと付き合っていた男性にとって、採血検査は恐ろしくて受けられなかったのである。

 エイズと診断されても治療法がないので、検査を受ける意味がなかった。また発症した場合、50%が1年以内、75%が2年以内、90%が3年以内に死亡するとされていて、検査は自らの死刑判決を聞きに行くようなものであった。

 その一方で、兵庫県・神戸市の「エイズ対策本部」は、保健所での血液検査を開始した。血液によるスクリーニングはELISA法、確認検査はウエスタンブロット法を用い、再確認は鳥取大医学部ウイルス教室の栗村敬教授が行うことになった。1カ月の相談人数は1万771人(男7525人、女3246人)、血液検査件数4373人(男3343人、女1030人)、電話による問い合わせは10万8463件であった。

 エイズパニックは神戸にとどまらず、日本中に広がっていった。東京都のエイズ・テレフォンサービスには2週間で25万件の問い合わせがあり、その内容は「外国人とキスしたが大丈夫か」「子供が受験で神戸に行くが心配ないか」「外国人のよく来るプールで泳いでいるが、大丈夫か」「今まで通り理髪店に行ってよいか」「ホテルのトイレで外国人の使用した便座に触ったが、感染しないか」「主人がソープランドに行っていたらしいが大丈夫か」など多岐にわたっていた。それに対し職員は「感染が心配されるのは、性交渉や傷口からの感染だけ。日常生活でエイズ患者と接触しても、感染する心配はない」と説明に追われていた。

 A子さんはソープランドで働いていたわけではなかったが、神戸のソープ街である福原では1日1000人いた客が300人に激減し、100人のソープ嬢が店を辞めた。店の売り上げは落ち込み、風俗街はゴーストタウンとなった。ソープ経営者はソープ嬢全員を保健所に連れていき、血液検査を受けさせ、定期検査の結果を店の安全宣言として宣伝した。また札幌や川崎のソープ街では、「外国人お断り」の張り紙が出された。

 この神戸エイズパニック事件の約2カ月前の昭和61年11月には、「松本エイズパニック事件」が起きている。松本エイズパニック事件は「エイズに感染しているフィリピン女性が、長野県松本市のクラブで働いている」とフィリピンの新聞が報道したことが発端であった。

 日本のマスコミがこれを受けて、長野県松本市のクラブで働いているジャパゆきさん(21)が感染者と特定し、その女性の実名が公表され、2カ月の滞在期中に50人ほどの客を取っていたと報道した。女性の働いていた店や彼女の客を捜しに、マスコミが松本市に押し寄せた。

 この報道で外国人女性が銭湯での入浴を拒否され、スーパーでの入店を断られた。もちろん、「彼女の客」とうわさされた男性は、村八分の扱いを受けた。長野県飯田市では「暴力団組員の知人がエイズにかかっている」という電話から、組員同士の発砲事件まで発生している。ただし、この松本エイズパニック事件は、女性がジャパゆきさんであり、店の名前もはっきりしていたため、パニックの震度は神戸に比べれば小さいものであった。

 厚生省エイズサーベイランス委員会は、異性間の性的接触で患者が出たことから、一般家庭にもエイズが広まる可能性があると述べ、62年を「エイズ元年」 と宣言した。

 当時の国民にとって、「エイズは乱れた性への天の裁き」との偏見があった。マスコミは競って神戸市のA子さんの身元を洗い、エイズの感染防止を名目にA子さんを「魔女狩り」の対象とした。A子さんの実名・写真・住所などが写真週刊誌などに掲載され、葬儀の様子や彼女の私生活も報道された。例えば、「女性セブン2月12日号」では、「初のエイズ死亡女性 見果てぬ夢」と題した7ページの記事で、A子さんの実名を挙げ、小・中学生時代の写真を掲載した。さらに同級生の話や、父は酒飲みで家庭不和であったこと、さらに偽名を使って夜の神戸で売春をしていたと書いた。

 この記事によってA子さんの両親は、「虚偽の内容に加え、興味本位に患者と家族の私生活を暴いたもので、プライバシーや肖像権、名誉を侵害された」として、「女性セブン」の発行元である小学館を相手取り慰謝料1000万円と謝罪広告を求める訴えを大阪地裁に起こしている。

 エイズパニックをきっかけに、エイズから社会を守ろうとする社会防衛論が議論されることになった。厚生省はA子さんが死亡した翌日に、エイズ対策を法制化する意向を発表した。それは、「2次感染防止のためにエイズ患者の届け出を義務化すること」であった。この法制化に対しマスコミも「1人のプライバシーより99人の命」と賛同した。

 しかし厚生省のエイズ対策本部は人権を重視し、プライバシーを守ることにこだわり、エイズ患者の人権とプライバシー優先させた。

 このエイズパニックで最も恐怖を味わったのが、血友病患者だった。血友病患者は、薬害エイズという病魔に加え、エイズ感染を周囲が知れば社会から抹殺されると感じたからである。