イワン・クラムスコイ

 イワン・クラムスコイ

(1837年〜1887年)
 ロシアの画家・美術評論家。1860年から約20年にわたって「移動派」の知的・精神的な指導者であり続けた。
ロシア南部オストログスクの貧しい小市民階級の出身。1857年から1863年まで(現サンクトペテルブルク美術大学)に学んだ。しかし、そこでイタリアを至高の芸術とする官製美術に反撥し、「14人の反乱」の首謀者としてアカデミーから放校処分に付された。クラムスコイは、その仲間とともに「美術家組合」を組織し、ヴァシリエフスキー島にその事務所とアトリエを設けて創作活動にいそしんだ。1860年代のアレクサンドル1世による「大改革」の時代には、ロシア各地よりさまざまな階層の美術青年が帝国美術アカデミーに集まったが、「14人の反乱」とはロシアにおける実生活とアカデミーの「高尚な」教授法とのあいだで生じた懸隔・乖離が原因で起こった芸術上の路線対立であった。クラムスコイは「ロシア人が美術の世界で独立独歩の時代が来ていた。外国のむつきを脱ぎすてるべき時代なのです」と述べて、夏は純ロシア的な風俗画を描き、冬には歴史画の大作に取り組んだ。
 帝政ロシアの民主化を求める革命家の理想に感化されたクラムスコイは、芸術家が公共に対して高邁な義務をもつこと、写実主義の原理、倫理的な内容および芸術における民族性についてみずからの意見を具体的に発信していった。クラムスコイは「移動展覧会協会」(移動派)の主要な創設メンバーのひとりとなり、その理想主義に共鳴したリーダーであった。クラムスコイはまた、画家について、その役割を、「預言者」であり「人々の前に鏡を置き、その鏡を見て彼らを不安にさせる使命」をもつという意見をもっていた。
「見知らぬ女」
 クラムスコイは、1863年から1868年まで実用芸術奨励協会・絵画教室の教員となっている。また、画廊を設けて、ロシアで著名な作家や知識人、芸術家など、公人の肖像画を展示した。クラムスコイの肖像画っとして知られるのが1873年作の「レフ・トルストイ」像および「イワン・シーシキン」像、1876年作の「パーヴェル・トレチャコフ」像、1879年の「ミハイル・サルトゥイコフ=シチェドリン」像ならびに1880年の「セルゲイ・ボトキン」像である。これらの人物作品では、シンプルながら味わい深い構図の妙と図像そのものの明快さが、心理学的な深い洞察をささえる主柱となっている。また、クラムスコイにおける平等を指向する目線は、庶民の描写に輝きを見出し、描き出された庶民の肖像は、民衆における個人の実直さという持ち味とその内面的な美しさが映し出されている。
 クラムスコイの代表作として名高い作品が「曠野のイイスス・ハリストス(イエス・キリスト)」(1872年、トレチャコフ美術館蔵)である。クラムスコイは、アレクサンドル・イワーノフの人道主義の伝統を持続させつつ、倫理的・哲学的な考えによって宗教的な趣向を取り扱っている。イエス・キリストの経験を、非常に心理学的かつ決定的に――すなわち英雄的な自己犠牲という観念として――解釈しているのである。
 クラムスコイは、イデオロギー的な視覚芸術をいっそう護持しようと願って、人物肖像画と主題性のある絵画作品との境界線上にある美術の創出に尽力した。たとえば、「『最後の詩』の頃のネクラーソフ (1877年-78年)、「見知らぬ女」(1883年)、「遣る瀬ない悲しみ」(1884年)などといった作品が、それである。それぞれの絵ごとに異なるのは、複雑で偽らざる衝動、人物そのもの、そして、運命というものをいかに表現するかという関心である。
 美術における民主的志向や、美に関する鋭い判断、そしてまた、客観的かつ公的な芸術の評価基準についてのクラムスコイの粘り強い探究心は、19世紀後半のロシアにおける民主的芸術や芸術理念の展開に、根本的な影響をあたえたのである。

見知らぬ女
1883年 油彩 75.5 cm × 99 cm
トレチャコフ美術館、モスクワ

『見知らぬ女』あるいは『忘れえぬ女』は、ロシアの画家イワン・クラムスコイの作品。モデルはさだかではないが、そこに描かれた女性は「しずかなたたずまいとまっすぐな瞳」をそなえている。ロシアで最も有名な作品のひとつであるが、発表当時は高慢でふしだらな女性を描いたものだとして批判を浴び、今日の評価はひとえに人々の芸術観が変化したことによるものである。この女性がトルストイの小説「アンナ・カレーニナ」の女主人公に触発されたと指摘している。
「見知らぬ女」は絵画の歴史における肖像画の諸様式をまぜあわせて描かれている。雪景色を背負った若い女性は、誇らしげであり高慢そうにみえる。目鼻立ちは整っているが、絶世の美女というわけではない。その人となりは彼女の印象的なくちびる、物憂げな眼、濃いまつげといった表現によって露わになっている。まとっているのははやりの黒い毛皮のコートと帽子、薄い革手袋であり、ペテルブルクのアニチコフ橋に馬車をとめている。クラムスコイは題に「見知らぬ女」とだけつけ、それが人々の好奇心をくすぐり、この絵画にほとんど不可解なほどの高い評価をあたえている。
 クラムスコイがこの絵を描いたのは晩年になってからである。彼の仕事ははじめから美術界の傍流におけるいわば反抗的なものであり、ロシアの美術アカデミーから追放されるまでに時間はかからなかった。しかし1883年ごろにはその名がよく知られるようになり、アレクサンドル3世のパトロンのもとで、その肖像画を描くまでになっている。そしてまたクラムスコイは、移動派の創設者であり指導者という顔ももっている。
 しかし「見知らぬ女」が初めて発表されたときのセンセーショナルな評判は、作品の審美的な側面によるものというより、そこに描きこまれた主題と関わっていた。この「見知らぬ女」は娼婦であると決めつけられ批判を浴びた。「馬車にのったコケット」の絵だと言う評者がいれば、「全身をビロードと毛皮でつつみ、華美な馬車の上から冷笑的で、訴えかけるようなまなざしをこちらに向ける、挑発的なまでに美しい女。路上で売りさばいた貞操の対価を装いとして身にまとう卑しい女を野放しにするような大都市の残りかすではないか」とまで言うものもいた。
 クラムスコイ自身は、「いったいどんな女性なのかわからないと言う人もいます。慎ましやかなのか、それとも自分を売り物にしているのか。しかし彼女のうちには、あらゆるものがある」。「見知らぬ女」の人気はすぐに不動のものとなっていった。クラムスコイに続く若きアーティストたちの間で、美しき罪というテーマが一般的なものとなったことも、その理由のひとつに挙げられる。「ただならぬ輝きを放ち、濃密に塗りこめられていながら、柔らかさがある。クラムスコイがその卓越した色彩感覚を存分にふるおうとしていることは明らかだ」。「アンナ・カレーニナ」としてみる人間は多い。彼女はそういったたぐいの特別な感情をいだかせる、特別なロシア人女性なのである」。