イッキ飲み

イッキ飲み 昭和60年(1985年) 

 昭和60年12月5日、日本語新語流行語大賞で金賞を得たのは「イッキ!イッキ!」、であった。このようにお酒の「イッキ飲み」が流行していた。1月の成人式、4月の新人歓迎会、12月の忘年会、飲み会があるたびに、イッキ飲みによる急性アルコール中毒が多発した。イッキ飲みとは、学生たちがコンパなどで、ビールのジョッキや酎ハイなどを一気に飲み干すことで、仲間たちは「イッキ、イッキ」と遊び感覚ではやしたてた。

 「イッキ」の掛け声で酒をあおると、アルコールの血中濃度が急激に高まり、ほろ酔い気分を飛び越え、脳の麻痺が進み、昏睡状態から死に至る危険性があった。このイッキ飲みの元祖は慶応大学の学生とされているが、イッキ飲みは急性アルコール中毒を起こしやすく、イッキ飲みにより死亡した学生は過去20年間で70人以上とされている。この死亡した者には、急性アルコール中毒死のほかに、飲酒後の転落死、水死なども含まれているが、若い生命をつまらぬことで失うばかばかしさを感じてしまう。

 お酒はゆっくりと味わうのが人間の文化である。イッキ飲みは仲間意識を高めるためと受け止められるが、子供から大人への通過儀式としてはあまりに幼稚すぎた。お酒を面白半分に強要することは、小・中学校のいじめに似た感覚が根底にあった。また酒そのものを愚弄(ぐろう)する行為であった。

 ちょうどその当時は、「養老乃瀧」「村さ来」「北の家族」「天狗」などの居酒屋ブームと重なり、飲み口がよくて値段の安い酎ハイが流行し、イッキ飲みを加速させた。イッキ飲みの流行はその危険性にもかかわらず、長期間にわたって続き、各地で死者を出したが、医学部も例外ではなかった。

 平成11年6月6日早朝、熊本大学医学部1年生の吉田拓郎(20)さんが急性アルコール中毒で死亡した。死体検案時の血中アルコール濃度は8.1mg/mLだった。教科書には4.0mg/mL以上で死亡と書かれていることから、相当量のアルコールを飲まされたことになる。

 吉田拓郎さんは熊本市内の中華料理店で開かれたボート部新入生歓迎コンパに参加し、二次会の居酒屋で医学部の上級生やOB医師から焼酎のイッキ飲みを強いられた。このイッキ飲みは「バトル」方式と呼ばれるもので、1対1で焼酎を飲み、相手より飲み方が遅いと再度イッキをさせられるのであった。

 吉田拓郎さんは負け続け、25度の焼酎を8合以上飲まされた。上級生は水で薄めた焼酎を飲んでいたのだから勝てるはずはなかった。吉田さんは1時間ほどで酔いつぶれ、名前を呼んでも、ほおをたたいても反応はなかった。上級生たちは、下級生に泥酔状態の吉田さんを車で運び、病院に連れて行くように言いつけた。しかし、「病院に連れていかなくても、死にゃせん」とタクシーの運転手に言われ、別の学生のアパートに連れて行った。吉田拓郎さんは翌朝午前6時ごろ、吐しゃ物を詰まらせ窒息死した。

 熊本大学医学部Y教授、OB医師、上級生たちは、吉田拓郎さんが泥酔状態であることを知りながら、保護する責任があったにもかかわらず、ほかの新入生とともに部屋に放置した。Y教授は説明会で、「口から少量の血液が漏れていた」「死因は確定できていない」「その日は、吉田君の体調が著しく悪かった」などと発言し、死の原因が吉田さん自身にあるように説明した。吉田さんの両親は二次会の様子や死に至った経緯を聞きたいと申し出たが、Y教授はそれを断った。

 吉田拓郎さんの両親はコンパに参加した47人と直接面談、数カ月かけて独自の調査を行い、吉田さんの死から半年後の12月6日に、刑事告訴を起こした。急性アルコール中毒死としては全国で初めてことで、保護責任者遺棄致死罪、傷害致死として告訴したが嫌疑不十分で不起訴処分となった。

 このため吉田拓郎さんの両親はコンパを主催した漕艇部責任者など上級生15人、OB医師3人、教授1人に対し、賠償請求訴訟を起こした。第一審では敗訴し福岡高裁に控訴した。この裁判は最高裁まで争われ、平成19年に教授らが遺族に1300万円を支払う判決が出ている。

 イッキ飲みが裁判で争われるのは珍しいが、平成8年4月、三井物産の社員寮で行われた新入社員歓迎会でイッキ飲みをさせられた男性新入社員(24)が死亡する事故があり、三井物産は遺族に約9000万円を支払っている。遺族は社員寮でイッキ飲みを許した会社に管理責任があると訴え、会社側が責任を認めて損害賠償金を支払うことになった。企業が飲酒による死亡事故の責任を認めたのは初めてのことだった。

 イッキ飲みは、体内のアルコール代謝を知れば、その危険性を理解できる。胃腸から吸収されたアルコールは肝臓に運ばれ、悪酔いの原因物質であるアセトアルデヒドに分解される。アセトアルデヒドはアルデヒド脱水素酵素により酢酸に分解され、最後に二酸化炭素と水になって体外に排出される。お酒が強い人の場合、清酒1合に含まれるアルコールを完全に分解するのに3時間かかるとされている。通常の飲み方であれば、飲んで酩酊(めいてい)期になると寝てしまうので昏睡状態には至らない。しかし大量のアルコールを一気に飲むと、肝臓の分解能を超えてしまうので、アルコール濃度は高まり中枢神経の麻痺から死に至る。これがイッキ飲みの怖い点である。イッキ飲みで死亡する可能性のあるアルコール量は、ビール換算で3.4L、日本酒換算で6合、ウイスキー換算でボトル約半分とされている。このように意外に少ない量で死んでしまうのである。

 さらに飲酒によって血管が拡張するため放熱しやすく、低体温症で死ぬことがある。春の花見の季節でも気温は20度以下で、飲酒後は体が熱く感じるが保温が大切である。吐くことも多く、吐いたものが逆流して窒息死することがある。そのため、あお向けではなく横向きに寝かせなければならない。また絶対に1人にしてはいけない。イッキ飲みとは必ずしも関係はないが、急性アルコール中毒になったら、とにかく救急車を呼ぶことである。

 平成16年、東京消防庁が急性アルコール中毒で救急搬送した人数は1万4582人で、毎年増加している。全国の交通死亡事故の1割前後が飲酒運転により起きている。アルコールは楽しく、ほどほどに飲みたいものである。イッキ飲みの強要はアルコール・ハラスメントと呼ぶにふさわしい行為である。