スペースインベーダー

スペースインベーダー 昭和54年(1979年)

 昭和53年6月、日本のゲームメーカー・タイトーが「スペースインベーダー」を開発、同年10月に東京・晴海で一般公開。翌54年の夏には、スペースインベーダーが空前の大ブームとなった。

 スペースインベーダーはそれまでのテレビゲームとは違っていた。画面の上から編隊を組んで攻めてくる55匹のインベーダー(宇宙からの侵略者)の攻撃をかわしながら、レバーを右左に動かし、ブロックの後ろから攻撃ボタンでインベーダーを次々に撃ち落としていくゲームだった。ゲーム器を相手に互いに攻撃し合うのが人気を呼び、ブームは全国に広がっていった。

 1ゲーム100円で、当時としては高い値段であったが、大人も子供もこのシューティングゲームに夢中になり、ゲーム器1台で1日50万円を稼ぎ出すほどだった。そのため多くの喫茶店がゲーム器を設置し、歌声喫茶でも客は無言のまま「ビューン」「ビューン」と電子音を響かせていた。スペースインベーダーは喫茶店ばかりでなく、デパート、スナック、飲食店、銭湯、理容室にまで進入し、日本各地にゲームセンター(インベーダーハウス)ができた。

 昭和54年7月、公開から1年もたたないのに、スペースインベーダーは全国7万カ所に28万台が並び、パチンコ店がインベーダーハウスに変わったほどである。人々は撃ち落とす快楽のとりこになり、タイトーは5000億円の利益を得た。

 このゲームは中学生を中心に、小学生から大人まで夢中にさせた。インベーダー白書によると、小学生の40%、中学生(男性)の80%以上がこのゲームを経験し、1回で1万円以上使うこともあった。ゲーム代欲しさに、恐喝や強盗、あげくの果てには機械ごと売上金を盗む少年もいた。さらに5円硬貨にセロハンテープを巻いた変造100円硬貨、糸を付けた100円硬貨を用いた事件が頻発し、電子ライターの電流を機械に当て、スイッチをオンにする知恵者もいた。

 ゲームにはパチンコのような景品はなかったが日本中が過熱した。忙しすぎる会社人間の増加、遊び相手のいない子供の増加、熱中するものを失った日常生活がブームの背景にあった。スペースインベーダーは一世を風靡(ふうび)し、人々に大きな影響を与えた。また子供の非行と浪費が問題となった。この過熱ぶりに、昭和54年6月6日、北海道江別市のイトーヨーカ堂は、子供への悪影響を懸念してスペースインベーダーを撤去し、さらに同月にはすべてのイトーヨーカ堂から撤去した。

 コンピューターの歴史は第2次世界大戦時に、米国アイオワ州立大のジョン・V・アタナソフ教授と大学院生クリフォード・ベリーが約300本の真空管からなる世界最初の電子計算機ABCマシンを製作したことから始まる。昭和20年に弾道計算用のコンピューターが実用化されたが、1万8800本の真空管を用い、重量は30トン、所要面積165平方メートルという巨大なものだった。

 日本では、最初は気象庁で使われ、昭和44年には国鉄(現JR)や大学入試の採点などで用いられた。コンピューターという言葉は国民の間ですぐに浸透したが、専門家が扱うものとの印象が強かった。テレビゲームが日本に初登場したのは、昭和47年、米国のアタリ社が開発した「ブロック崩し」だった。しかしスペースインベーダーの登場で、コンピューターがより身近になり、タイトーはゲーム機メーカーのトップに躍り出た。ほかのゲーム機メーカーも競って新商品を開発した。

 スペースインベーダーのピークは昭和54年7月で、以後ブームは沈静化していった。それとともにテレビゲームが家庭に侵入することになった。昭和58年7月15日、任天堂から「ファミリーコンピュータ」が1万4800円で発売され、家庭で気楽にゲームができるようになった。「ファミリーコンピュータ」はゲーム機であるが、このネーミングがコンピューターを身近な存在にした。2年後に発売された「スーパーマリオブラザーズ」のソフトが、テレビゲームブームに火を付け、ファミコンの累積販売台数は6291万台に達した。

 遊び相手のいない子供だけでなく、子供から大人までテレビゲームに熱中し、テレビゲームを流行させた。テレビゲームが子供の精神にどの程度影響したかは分からないが、機械との冷たいコミュニケーション、架空と現実との落差、リセットで済まそうとする人生観、暴力と殺人ゲームなど、数値では示すことはできないが、これらが子供たちに与えた影響は大きい。

 一般用のパソコンも、昭和54年8月にNECがPC-8001を16万8000円で発売し、次第にパソコンが個人にまで普及するようになった。このようにスペースインベーダーはコンピューター文化の先駆けとなり、日本は世界のパソコンゲームの覇者となった。昭和54年2月には、世界初の日本語ワープロが東芝から630万円という高額な値段で発売されたが、数年後には各社の開発競争により30万円を割り、誰でも買える値段になった。

 パソコンとワープロの登場は研究者にとって大きな利点をもたらした。それまでの論文はすべて手書きで、教授が赤字で原稿に訂正を加えると、すべてを書き直す苦労があった。学会発表は手書きスライドから、パソコンが作るスライドへ、さらにプロジェクターによる映写へと変わった。統計も数値の入力だけで済むようになった。このように、現在のパソコン生活の原点、日本人の脳ミソを変えた原点は、スペースインベーダーだったと思われる。