おしん症候群

 昭和58年4月4日、NHK朝の連続テレビ小説に「おしん」が登場した。脚本は橋田寿賀子で、明治時代の東北の貧しい小作農の3女に生まれた「おしん」が苦労を重ね自立していくドラマだった。
 子役の小林綾子は貧しい東北の少女になりきり、大根めしなどの粗食に耐え、凄まじい苦労を必死に生きる役を演じた。そして苦労の中で明るさを失わない可憐な姿は超人気番組となった。多くの人と出会っては別れ、明治、大正、昭和の3代にわたって戦争や大震災の辛苦を乗り越えて老後に至る物語であった。
 おしんの子役は小林綾子から、成人役の田中裕子へ、老人役は乙羽信子が演じ、激動の時代をひたすら辛抱して生きてゆく女の一生を演じた。1年間の連続ドラマ「おしん」は平均視聴率52.6%、最高時62.9%を記録した。つまり国民の2人に1人が見ていたことになる。
 舞台となった山形県の食堂では、ドラマで貧しさの象徴となった「大恨めし」が登場し、土産店では「おしんこけし」「おしんまんじゅう」「おしん酒」などの商品がならんだ。山形県酒田駅前にはおしんの銅像が建ち、最上川の舟下りは「おしんライン」と改名された。そして「おしんの子守唄」がヒットした。
 当時の中曽根康弘首相は、ロッキード裁判の田中判決を控えて苦しい国会運営を強いられ「国会運営はおしんでいく」と発言した。このようにさまざまな分野で辛抱の意味で「おしん」が流行語となった。潮戸山三男文相はおしんを演じた小林綾子を大臣室に招き「おしん後援会」をつくり、流行にあやかろうとする与野党の国会議員10人がNHKに押しかけ、世間の失笑を買った。経済人も「これからの時代はおしんのような、我慢の哲学が必要だ」と発言し、相撲では、「おしん横綱」などの言葉が誕生した。
 日本は急速な高度経済成長をとげ経済大国となった。しかし過去の貧しさの中での真摯な生き方、けなげな性格、モラル感がまだ人々の記憶に残っていて、人々は「おしん」の放映に見入っていた。「おしん」は日本だけでなく、東南アジアを中心に59の国で放映された。アメリカの週刊誌ニューズウィーク58年9月5日号は、「おしん」を「日本の極めつけのドラマ」として紹介し、その人気の秘密を「日本という国をおしんという人物に擬人化したため」と書いている。そしてこの現象を「おしんシンドローム」と表現、流行語大賞の新造語部門で金賞をとった。後に田中裕子が訪中した際、「おしんと違いすぎる」と反感を買ったが、この言葉が飽食日本と貧しいアジアとの間の大きな溝を表していた。