青酸コーラ無差別殺人事件

青酸コーラ無差別殺人事件 昭和52年(1977年)

 昭和52年1月4日早朝、東京・品川で青酸コーラによる無差別殺人事件が発生した。最初の犠牲者は、正月休みを利用して新幹線の食堂でアルバイトをしていた京都市洛東高校1年生の檜垣明君(16)で、父親は新大阪駅の助役だった。檜垣君は、新大阪発東京行きの「こだま」の業務を終え、午前零時すぎに同僚5人と品川駅で下車、歩いて5分ほどの会社の寮へ向かった。駅前から第1京浜国道を横断して、反対側の歩道を200メートルほど進み、電話ボックスの前を通りかかると、同僚の女性(22)が電話ボックスに10円玉が落ちているのを見つけた。電話ボックスのドアを開けると、床にコカコーラの瓶が置いてあった。女性社員は誰かが忘れたのだろうと思い、軽い気持ちで「もらっていこう」と言って檜垣君に手渡した。

 6人は寮に帰り入浴を終えると、娯楽室に集まってビールで乾杯した。檜垣君は拾ってきたコーラの栓を抜いてコーラを口にしたが、「このコーラ、腐っている」と言って、すぐにコーラを吐き出し水道水でうがいをした。しかしその数分後、突然倒れ意識不明になった。すぐに救急車で北品川総合病院に搬送され、気管切開、胃洗浄などの救命処置が施されたが、午前7時30分に死亡した。

 高輪警察署、警視庁捜査1課の捜査員が社員寮に駆けつけ、毒物鑑定を行った結果、瓶の底に残っていたコーラから青酸反応が出た。何者かがコーラに青酸化合物を混入し、電話ボックスに放置したのだった。

 檜垣君が死亡してから45分後の午前8時15分、青酸コーラの置いてあった電話ボックスから約600メートル離れた歩道で、灰色の作業服を着た中年男性が倒れているのを会社員(45)が見つけた。すぐに近くの病院に運ばれたが、男性はすでに死亡していた。所持品は、現金25円とショルダーバッグとタオル1本であった。そのため当初は、行き倒れによる凍死とされていたが、遺体解剖の結果、青酸反応が出た。遺体の周辺にはコーラを吐いた跡があって、約100メートル離れた電柱の下に飲みかけのコーラの瓶が残されていた。このコーラからも青酸反応が検出され、第2の青酸コーラ事件となった。

 被害者は、指紋から山口県下関市出身の菅原博さん(46)と判明した。菅原さんは地元で林業をしていたが、窃盗で2度逮捕され、執行猶予中に妻と離婚して岡山に転居していた。そこで詐欺事件を起こし、その取り調べ中に逃亡して13年間消息不明だった。

 警察は聞き込みを行い、200人の機動隊が周辺一帯を捜索した。その結果、第1現場から約600メートル離れた商店前の公衆電話に栓のついた新たなコーラが放置されていた。この公衆電話のコーラは、近所に住む中学3年生が警察よりも先に見つけていた。中学生は用事があったので、帰りに持って帰ろうと思っていたが、戻ってみると警察官が来ていたのだった。このコーラからも青酸反応が出て、中学生は危ういところで難を免れた。

 コーラに混入されていた青酸化合物は青酸ナトリウムだった。青酸ナトリウムは青酸ソーダとも呼ばれ、青酸カリウム(青酸カリ)と同様に毒性が強く0.2グラムが致死量であった。一般には入手しにくいが、メッキ工場には欠かせない薬品であった。犯行現場の品川から川崎、横浜にかけてメッキ工場が多数あった。

 犯行現場付近には、高輪プリンスホテル、ホテル・パシフィックが並び、その裏手は昔からの高級住宅街だった。コーラが置かれた3つの現場は、品川駅から半径300メートル以内で、警察は不特定多数を狙った同一犯による殺人事件と判断した。住民の目撃証言から、第1現場のコーラは3日午後7時半から午後8時の間に、第2現場の電話ボックスは4日早朝に、その後、第3現場の公衆電話に青酸コーラが置かれたことが分かった。 

 犯人の手掛かりは残されたコーラの瓶3本と王冠4個だったが、指紋は見つからなかった。王冠の3けたの製造番号から製造工場と製造日が特定され、北品川の10の商店で販売していたことは分かったが、それ以上の進展は見られなかった。

 1年で最も華やいだ気分になる正月の犯行から、犯人は社会的に恵まれず、日ごろの不満をゆがんだ形で爆発させたとされた。この事件当時、晴れ着に硫酸や塩酸をかける事件、無差別の連続放火事件などがあって、共通した犯罪心理によるものと思われた。

 この事件から約1カ月後、2月14日のバレンタイン・デーに、東京駅八重洲地下街の南端の階段通路で、グリコのアーモンド・チョコレート40箱が入ったショッピング袋を会社社長(43)が見つけた。社長はどうせ空箱だろうと袋をけ飛ばしてみると重い反応があった。いったんはその場を通り過ぎたが、しばらくして青酸コーラ事件を思い出し、「もし毒が入っていたら大変だ」と、近くの交番に届け出た。犯人の細工は極めて巧みで、不審な点は見られなかった。チョコレートは10日間保管されたが、落とし主が現れなかったため、24日に江崎グリコ東京支店に返却された。

 江崎グリコ東京支店で調べたところ、箱の中のセロハンが切り取られていて、張り直した跡があった。さらに箱のふたにある製造番号はすべて切り取られていた。不審に思った同支店は、大阪本社の中央研究所に検査を依頼した。その結果、40箱すべてのチョコレートから致死量に達する青酸ナトリウムが検出された。その箱の裏には「おごれる醜い日本人に天誅(てんちゅう)を下す」と声明文が片仮名のゴム印で書かれてあった。

 このゴム印は浅草のゴム印製作所が製造していたことが分かり、捜査本部は約800組のゴム印の納入先を絞り込んだが、捜査は進展せず、青酸コーラ事件との関連も不明のままとなった。15年後の平成4年1月4日、青酸コーラによる無差別殺人事件は時効となった。

 これらの事件から「愉快犯」という言葉が生まれた。愉快犯とは、「不特定多数を対象に世間を騒がせ、他人が困るのを見て快楽を得る犯罪者」のことである。これまでの犯罪と違い、金銭、恨みとは関係なく、加害者と被害者に接点がなかった。都市の潜む犯人の鬱積した感情が、理由なき敵意となって、善良な市民に向けられたのである。ありふれた飲食物に毒物を仕掛ける卑劣な犯罪であった。