有田市コレラ事件

有田市コレラ事件 昭和52年(1977年)
 かつてコレラは恐ろしい感染症であった。日本では、明治19年に患者15万人、死者10万人。明治23年に患者4万5000人、死者3万3000人。明治28年には患者5万5000人、死者4万人の大流行をきたし、多くの日本人がコレラで死亡した。その後、コレラは減少したが、昭和21年、終戦による引き揚げ者がコレラを持ち込み1245人の感染者が出た。それ以降コレラは激減、そのためコレラは過去の疾患と多くの日本人が思い込んでいた。
 昭和52年6月10日、有田市立病院に下痢と発熱を訴える3人の患者が相次いで入院してきた。有田市立病院の医師は食中毒を疑い、翌11日に湯浅保健所に「下痢、おう吐、脱水の患者が3人入院し、患者のうち2人は同じ症状であるが、1人は症状が異なっている。腸炎ビブリオによる食中毒を考えて検査中」と報告した。
 保健所は衛生課職員を現地に派遣し、3人の患者に何らかの関連性がないかを調査した。3人の患者の住所は有田市であったが、住んでいる家は離れていて、環境や職業に共通点はなく、3人に接点はなかった。そのため食中毒と断定できずにいたが、時間とともに下痢を訴える患者が続々と病院を受診し、有田市立病院には8人が入院した。
 下痢の患者は同病院だけではなかった。11日には和歌山県立医大病院にも患者が入院。さらに海南市民病院、済生会有田病院にも同じ症状の患者が入院してきた。患者は増え、いずれも「米のとぎ汁のような水様性の下痢」を訴えていた。さらに全身衰弱が強く、四肢の硬直、テタニー様症状を呈していた。
 患者の便からは食中毒菌は検出されず、下痢症状からコレラが疑われたが、コレラ菌の検出には特別な培地と血清が必要だった。そのため患者の便は飛行機で国立予防衛生研究所(現感染症研究所)に送られ、検査でコレラ菌(エルトール・小川型)が検出された。
 6月15日午後9時34分、厚生省保健情報課は和歌山県にこの結果を連絡。ほぼ同時に有田市のコレラ発生がテレビの臨時ニュースで報道された。有田市は高野山からの河川が市の中心部を流れ、ミカンと漁業の盛んな人口3万5000人の街だった。テレビの臨時ニュースによって、有田市は全国から注目を集めることになる。コレラ患者の集団発生によって同市はパニックとなった。
 和歌山県衛生部は翌16日、「コレラ防疫対策本部」を有田市に設置、患者の集中している港町地区を中心に厳重な防疫体制を敷いた。和歌山県立医大が中心になり、20人の医師が動員され、疫学、防疫、検疫の3班に分かれて活動を開始した。潜伏感染の患者が何人いるのか分からないため、港町の住民は禁足を命じられ、学校は臨時休校となった。防疫のため噴霧器が全国から集められ、街中が消毒液のにおいに包まれた。市民1万2000人の検便が実施され、新たな患者20人が隔離された。渡辺美智雄厚相は27万人分のワクチンが用意できたと閣議に報告、世界保健機関(WHO)は同市をコレラ汚染地域に指定した。
 感染経路が分からないため、患者が急増する可能性があった。そのため人口3万5000人の有田市全体が日本から隔離されることになった。この騒動のさなか、和歌山市の城南病院に入院していた71歳のコレラ患者が死亡。昭和39年以来、コレラによる初の死亡例となった。
 東京都は有田市からの魚介類の入荷を停止。入荷拒否は全国に及び、有田漁業協同組合は操業停止に追い込まれた。夏ミカンも入荷が停止され40トンが破棄された。有田市の物流は停止し、特にコレラ発生地域とされた港町の商店の棚は空っぽになった。
 このようなコレラ差別は農作物だけではなかった。有田市民は出社を拒否され、自宅待機となった会社員が多くいた。大阪のレストランでは和歌山ナンバーの車の入店を拒否、「当店では和歌山産は扱っておりません」と張り紙まで現れた。陸上自衛隊が出動し、和歌山県は非保菌者に「コレラ無菌証明書」を出す騒ぎとなった。
 コレラ患者は6月9日から20日にかけて多発した。患者は男性の会社員に多く、家族内の2次感染や小児の発生率は低かった。有田市は港に出入りする漁船が多かったため、乗組員も調べられたが、集団コレラ事件の感染源は不明であった。
 疫学的解析から、有田市のコレラは東南アジアのコレラ汚染地域から何らかの形で侵入したとされている。コレラは複数ルートから侵入し、地域あるいは職場のトイレ、下水、井戸などが汚染され、人から人へ食品などを介して感染したと考えた。
 やがて患者の発生は下火となり、厚生省は7月2日、有田市をコレラ汚染地区から解除するとWHOに報告した。有田市のコレラ感染者は、真性患者21人、疑似患者20人、健康保菌者56人であった。真性患者とは、コレラ症状を起こすエンテロトキシン毒素が検出された患者のことである。全体では97人がコレラに感染して1人が死亡。コレラによる被害総額は、農水産物など47億円に上った。
 コレラは19世紀以降、これまで世界的な大流行を繰り返し多くの犠牲者を出した。このコレラはインド・ガンジス川周辺の風土病であった古典型(アジア型)コレラによるもので、現在ではほとんど見られない。現在のコレラはエルトール型で、症状は軽度で致死率は約1%である。有田市のコレラもエルトール型だった。
 有田市は日本から隔離されたが、コレラは怖い病気ではない。このことは平成11年の感染症新法でコレラが強制入院の対象から外されたことからも明確である。この有田市のコレラ事件の特徴は、衛生状態の保たれている地域でコレラが集団発生したため、必要以上にパニックを起こしたことである。