日本ケミファ・データ捏造事件

日本ケミファ・データ捏造事件(昭和57年)

 昭和57年11月2日、厚生省は新薬の製造承認を受けるためデータを捏造したとして日本ケミファを事情聴取した。日本ケミファは新薬を発売するため、本来ならば提出すべき臨床実験を行わずに、偽造したデータを厚生省に提出していた。

 日本ケミファは消炎鎮痛剤である「ノルベタン」について203症例、血液降下剤「トスカーナ」については50症例の臨床試験のデータを捏造していた。ノルベタンはすでに半年前から発売されていて、月商1億5000万円を売り上げる同社の有力商品になっていた。また別の消炎鎮痛剤である「シンシナミン」の新薬申請の際には、不利な結果がでた動物実験のデータを隠していた。

 今回の事件は、製薬業界はじまって以来の不祥事であった。新薬承認のデータはどんなことがあっても正確でなければならない。それが製薬会社の最低限のルールだった。世の中には絶対に守らなければならないルールがある。それを守られなかったら、社会そのものが成り立たないからである。厚生省はデータ捏造という企業の倫理観の欠如を予想していなかった。この事件は厚生省のみならす、製薬業界、国民にも大きなショックを与えた。虚偽のデータで、あたかも臨床試験を行ったように装い、さらに効果があるように見せかけ、新薬を申請して製造していたのである。これらは人命にかかわることであり、医の倫理に関わる問題であった。

 厚生省が新薬として承認するのは年間40から50件であるが、承認はすべて製薬会社が提出したデータが正しいという前提で審議されてきた。データが捏造されていたら、薬事行政が根底から崩れることになる。厚生省は製薬会社のデータ捏造を予想していなかったので、この事件を罰する法律条項がなく、日本ケミファを刑事責任で追及することはできなかった。まさに誰も予想しなかった捏造事件であった。

 新薬の開発は「数千の物質を候補にして、動物実験、臨床試験を行うという膨大な時間と研究費がかかる」、新薬の発売まで「10年間、30億円」と言われていた。製薬会社の開発費は経費の10%以上であり、新薬の開発に社運がかかるほどのであった。東証一部上場の中堅製薬会社が捏造という自殺行為を行ったのは、製薬会社の厳しい開発競争、営利主義、さらには「ばれるはずがない」との思いこみがあった。

 日本ケミファの開発部長は開発申請を早めるため、ニセのデータを作成するように指示していた。新薬許可を早くとって、一日でも早く販売したい焦りがあった。しかし「ノルベタン」だけなら魔が差したと釈明できるが、数種の新薬で同様の捏造データを提出したのだから、魔が差したのではなく、日本ケミファの社内体質といわれても弁解はできない。

 この事件が生んだもう一つの問題は、捏造したデータを実在する医師の名前で専門誌に発表していたことである。日本ケミファは日大板橋病院で臨床試験を行ったようにデータを捏造し、ニセのデータをもとに会社で論文を作成、日大医学部整形外科医長・三瓶講師の名前で専門雑誌に発表していた。三瓶講師は無断で論文が掲載されたと訴えたが、三瓶講師は他人が書いた論文を30分間チェックし140万円の謝礼をもらっていた。このように全く常識では考えられない日本ケミファと大学講師の癒着があった。この事件の背景には、医師と業者の癒着、製薬企業の儲け主義、医薬行政のずさんな構造があった。

 今回の事件の発端は、日本ケミファ研究所幹部員が共同通信社に内部告白したことによる。同社の山口明社長はワンマン社長として知られており、社内の労使関係はうまくいっていなかった。今回の捏造事件も上層部はばれないだろうと考えていたのだろうが、結局は内部告発により自殺行為となった。山口社長は捏造事件に関与していないと厚生省に報告したが、ワンマン社長である山口社長の発言を信じる社員はいなかった。

 山口社長は厚生省で今回の不祥事を陳謝したが、そのあとの株主説明会で「処分が決まるまで出来るだけ製品を売りたい」と発言した。この発言は、厚生省を烈火のごとく怒らせ、厚生省は薬事法に基づき日本ケミファに80日間の製造停止と輸入業務停止を通告した。この厚生省の決定は製薬業界はじまって以来の厳しい処分であった。12月3日、山口社長は発言の事実を認め辞意を表明、さらに昭和45年以降の新薬6品目の承認を自主的に取り下げた。

 消炎鎮痛剤ノルベタンは日本ワイス社との共同開発の薬剤で、日本ワイス社と日本ケミファは製造承認に必要な試験を分担していた。しかし日本ケミファが分担した臨床試験の一部が捏造されていたことから製造承認が取り消されたのである。そのため日本ワイス社は多大な損害を被ったとして総額約9億円の損害賠償を日本ケミファに請求。平成3年、東京高裁は日本ケミファに日本ワイスの過失分約4億9千万円の支払いを命じた。

 会社ぐるみの新薬申請実験データの不正捏造事件はその後も散発し、昭和58年3月7日には明治製菓が消化酵素剤「エクセラーゼ」の動物実験のデータを捏造したまま発売している。