新薬スパイ事件

新薬スパイ事件 昭和58年(1983年)

 昭和46年に藤沢薬品工業は第1世代の抗生剤「セファメジン」を発売し、「セファメジン」の大ヒットにより中小企業であった藤沢薬品は大手企業にのし上がった。このように1つの薬剤の売れ行きが、製薬会社の社運を担うようになり、製薬会社の猛烈な新薬開発競争が始まった。昭和57年の抗生物質の生産額は8650億円で、前年比で1割増の急成長を続けていた。抗生物質は第1世代から第3世代まで次々に開発され、新薬が成功すれば、先発メーカーは特許権が保護され6年間市場を独占できた。新薬スパイ事件はこのような企業間の競争がピークとなった昭和58年に発覚した。

 新薬スパイ事件が発覚した発端は、毎日新聞への読者の通報だった。「製薬会社が役所から医薬品の出荷を停止させられ、医薬品が倉庫にたまっている」という簡単な内容であった。この通報がきっかけになり、国立予防衛生研究所(現国立感染症研究所)を舞台にした汚職事件が明るみになった。

 昭和58年9月7日、国立予防衛生研究所抗生物質部技官の鈴木清(23)が国家検定を偽装して抗生剤を単独で合格させたとして東京地検特捜部に逮捕された。鈴木清は57年度の1年間だけで、検定前に610件の合格通知を製薬会社に出し、中央薬事審議会の新薬のデータも盗み出していた。さらにこの事件は、薬の開発にかかわる意外な局面を次々に暴露していった。

 9月13日、藤沢薬品開発部主査のF(53)が鈴木清と共謀して中央薬事審の新薬データを盗み出した容疑で逮捕された。Fと鈴木清は、中央薬事審に提出していた山之内製薬の抗生剤「セフォテタン」のマル秘資料を盗んだとされ、さらに藤沢薬品東京支社副支社長、本社の開発担当常務など役員・社員4人が窃盗、共謀、証拠隠滅の疑いで逮捕された。藤沢薬品はセファメジンが大ヒット商品となったが、他社が新たな抗生剤を次々に開発したため、第3世代の抗生剤「エポセリン」の開発に社運をかけていた。しかし「エポセリン」は、中央薬事審から多くの注文を付けられ、長時間にわたる実験を余儀なくされていた。この事件の裏には、新薬開発に向けた藤沢薬品の焦りがあった。

 鈴木清を通じて新薬データを盗み出したのは藤沢薬品1社に限らなかった。帝三製薬、富山化学工業の社員を含め会社幹部12人が逮捕された。鈴木清は各メーカーのスパイ役を何重にも演じ、この事件は組織ぐるみの新薬スパイ事件へと発展した。抗生物質の開発にしのぎを削る製薬会社の過激な競争の実態を示した。

 逮捕者は製薬会社だけではなかった。公平であるべき中央薬事審にも東京地検の調べが入り、中央薬事審委員の江島昭(55)が逮捕された。江島は中央薬事審の秘密文書である医薬品申請資料を帝三製薬に渡し、現金170万円を受け取っていた。

 薬剤を開発して発売するには膨大な資金と時間が必要である。しかし巨額な開発費がかかっても、新薬が当たれば何百億円になって返ってきた。逆に画期的な薬剤を開発しても、売れなければ投資した金額は回収できなかった。そのため各製薬会社は新薬の開発を成功させるため、さまざまな手口を用いた。

 産業スパイの横行は、1日でも早く新薬を発売したい製薬会社が、薬剤の臨床試験を行う医師や病院、臨床試験を取りまとめる大学教授、効果を判定する中央薬事審、薬剤の値段を設定する厚生省などに猛烈に働き掛け、このような事情から、新薬開発に絡む黒いうわさが流れていた。

 産業スパイは日本医師会の事務員にまで及んだ。9月28日、東京地検は日本医師会事務局保健課長の森田史郎(57)を業務上横領の疑いで逮捕した。森田史郎は新薬が保険の適応を受けるための最後の関門である「疑義解釈委員会」の事務を取り仕切っていた。森田は事務局に保管してある中央薬事審の新薬データを藤沢薬品に渡していた。他社の新薬に関する膨大な資料を手渡したことから業務上横領に問われたのである。家宅捜査のため東京地検のマイクロバスが日本医師会に横付けされた。

 林義郎厚相は一連の事件を受け、事務次官ら13人を処分。中央薬事審委員は定数56人のうち3割を入れ替え、14部会のうち8部会の部会長を新たに選出した。この事件は製薬業界だけでなく、薬剤の許認可権を持つ行政が絡んだ構造汚職であった。製薬会社は高い利益を得るため、行政側は天下り確保のため、両者の利害が一致していた。

 押収した資料から、防衛医科大学の医薬品納入汚職も発覚。10月19日、東京地検は防衛医大小児科部長(62)を収賄の疑いで逮捕した。小児科部長は医薬品の選定をめぐり、製薬会社3社から140万円のわいろを受け取っていたとされた。札幌逓信病院でも、耳鼻咽喉科部長が医薬品選定で明治製菓など製薬会社9社から謝礼として現金を受け取っていたとして逮捕された。この事件は医師と製薬会社の癒着、薬漬け医療の実態を浮き彫りにした。同年3月22日、昭和大薬学部の教授と助教授が、明治製菓から依頼された消化剤の実験データを捏造したとして大学を辞任。9月4日には岐阜薬科大の学長が天野製薬から2億円の技術指導料を受け取っていたことが発覚して辞任している。このように昭和58年は医学界の黒い霧が続出した年であった。

 医薬品業界は、普通の製品を作る産業とは違い、生命に直結する薬剤を販売するため、さまざまな規制を受けていた。官僚の統制下に置かれ、それでいて同業者の激しい競争があった。そのため新薬の開発を、いかに有利に行うかに社運がかかっていた。

 新薬の開発は製薬会社に巨額の利益をもたらすが、スパイ事件の背景には、製薬会社と製造を許可する中央薬事審との癒着、薬価の設定をする厚生省との癒着、薬の売り込みに関する医療機関との癒着があった。