手首ラーメン事件

【手首ラーメン事件】昭和53年 (1978年)

 当時は広域暴力団の抗争がマスコミを賑わしていた。昭和50年7月26日、大阪府豊中市の飲食店で反山口組の松田組系組員が、山口組系佐々木組の組員3人を射殺し、1人に重傷を負わせた。佐々木組は松田組の背後にいる大日本正義団の初代会長・吉田芳弘を浪速区日本橋の路上で射殺し、暴力団どうしの大阪戦争となった。

 昭和53年7月11日の夜、京都市内のナイトクラブ・ベラミで山口組の田岡一雄組長(65)が大日本正義団の鳴海清(26)に狙撃された。田岡一雄組長は生命に別状はなかったが、鳴海清をかくまった反山口組松田組の組員7人が殺され、六甲山中で壮絶なリンチを受けた鳴海清の死体が発見された。鳴海清は山口組に殺害されたと思われていたが、実際には鳴海をかくまった松田組による殺害であった。

 同じような暴力団の抗争も東京でもあった。住吉連合会の組員のB(30)は屋台30台、売り子28人を雇っていた。同じ組員の幹部A(29)は自分の子分のBの商売が上手くいっているのが面白くなく、昭和53年7月5日に東京都荒川区のBの事務所に乗り込みのケンカとなった。内部抗争から兄貴分のAを殺害したB(30)は遺体をバラバラにして兵庫県と岡山県の山中に埋めた。事件を内偵していた警察は殺害容疑で5人を逮捕。供述通りAの遺体が山中から発見された。遺体は腐乱しており頭部・胴体・両手・両足がバラバラにされていたが、背中「天女」の刺青から幹部Aの遺体であることが確認された。殺害の動機は組長代行のポストと屋台ラーメンの縄張り争いであった。

 遺体は発見されたが、何故か遺体には手首がなかった。Bは指紋から身元がバレないように手首を持ち帰えったと自供。手首は子分の屋台の鍋で煮込み、ラーメンのスープのダシに使い、残った骨は砕いて捨てたと述べた。手首でダシをとったラーメンを荒川付近の屋台で客に出していた。9月25日、このことが新聞やテレビで報道されると世間はパニック状態となった。自分たちが食べてしまったのか、いったいどの屋台ラーメンだったのか、このような客からの問い合わせが警察に殺到。ラーメンの売上が3割ダウン、特に日暮里や荒川周辺の屋台の売り上げは激減して休業状態となった。ラーメン業界は警視庁に営業妨害だと猛烈に抗議。そのせいか警視庁は「手首でラーメンのダシをとったが、スープの臭いから客が異変に気づき、事件の発覚を恐れて販売はしなかった」と弁解じみた発表をおこなった。手首ラーメンの真相は不明であるが、現在も都市伝説として生きている。東京地裁はBに懲役17年、共犯の4人に懲役8~12年の判決を言い渡した。