愛知医大騒動

愛知医大騒動 昭和52年(1977年)

 昭和52年7月4日、愛知県長久手町の愛知医大で成績不良の受験生から高額の寄付金を取っていた裏口入学の実態が明るみに出た。入学試験は500点満点中200点以上が合格、150点以上が補欠だったが、福井県・昭英高校からの合格者43人の中には、30点で合格した学生が含まれていた。

 文部省の調べでは、入学者126人からの寄付金総額は35億円以上で、入学試験前に寄付金を払っていた者が10数人で、裏の寄付金も1億2500万円に達していた。昭英高校は、愛知医大の付属高校として文部省から認可されていなかったが、同校の父兄たちは、昭英振興会の預かり金の形で、愛知医大の学校債を大量に購入させられていた。昭英高校は昭和49年の開校時から、校長に愛知医大の太田元次・初代理事長の長男が就任しており、主要なポストを太田ファミリーが占めていた。

 このことから愛知医大は、学長を兼任していた太田理事長ら8人が引責退陣、内部の「再建委員会」が事態の収拾に当たった。ところが再建をめぐって、退陣した前理事長と再建委が対立して混迷が深まった。寄付金の脱税問題、前理事長の多額な所得税の修正申告などが暴露され、事態は複雑な動きを見せた。

 結局、愛知医大は、<1>裏口入学、不正入試の再発を防ぐ<2>昭英高校をほかの高校と同等に扱う<3>イメージを変えるため大学名を変えることで汚名返上を図る。このことでこの問題は一応決着の方向となった。

 ところが同年9月13日、愛知医大で事もあろうに約3億円が強奪される事件が起きた。昭英高校の池戸史朗理事と湖海学園の館益雄本部長の2人が保護者会の弁護士を名乗る男から電話で呼び出され、名古屋市西区にあるホテル・ナゴヤキャッスルに監禁され、赤軍派を名乗る2人組の犯人が白昼堂々と素顔をさらして犯行におよんだのである。犯人の1人が館本部長を東海銀行滝子支店へ連れて行き、支店の応接間で支店長と雑談を交わし、昭英振興会の預かり金2億8000万円を下ろさせ強奪した。犯人の目撃者や物証は多数あったが、捜査は難航し、2人組の犯人の足取りは名古屋駅までしかたどれなかった。

 被害を受けた昭英振興会の背後関係、犯行直前に約3億円の使用不明金があったことから、警察ばかりでなくマスコミも「狂言説」「内部犯行説」を唱えた。この事件前に犯人は愛知医大上層部5人と面会しており、顔が知られていた。もし強盗が目的であれば、顔を知られるような行動に出るはずはなく、犯人は内部の事情に精通している人物とされた。

 この事件の捜査は難航し、行き詰まりを見せた。愛知医大が裏口入学金で騒動を起こしたばかりだったので、犯人は裏金に絡んだ複雑な事情を熟知していて、犯人が誰なのかを大学が言えないのではと憶測された。

 事件から1年半後の昭和54年3月13日、名古屋生まれの元金融業・近藤忠雄(57)が東京・赤坂のマンションで逮捕された。近藤は奪った金を借金返済に充て、愛人とギャンブルに使ったと自供したが、愛知医大事件の共犯者については頑として黙秘を通した。近藤は懲役13年の刑に服し、出所後に、近藤はまた違う事件を起こした。

 平成6年11月11日、住友銀行大阪本店に、融資をしなければ青酸カプセルを飲むという予告電話が入り、指定した時間に男性が現れた。住友銀行から連絡を受けた大阪府警は、恐喝事件に発展すると判断し、捜査員数人を本店前に張り込ませていた。姿を見せた男性は小柄でがっちりした体格であった。窓口の融資担当者2人が応接室で約1時間半男性と応対した。男性は具体的融資の金額を示さずに話を進めた。銀行員は「融資については上司と相談するので、また後日来てくれるように」と説明すると、男性は意外なほどあっさり引き下がった。

 男性が銀行の外に出たところを、待ち構えていた捜査員が呼び止め、職務質問をした。男性は顔色を変え、背広のポケットに右手を入れた。「青酸カプセルを飲む」と判断した捜査員がとっさに制したが、ポケットにあったのはカプセルではなくピストルだった。任意同行を求められた男性は捜査員におとなしく従った。

 その男が愛知医大事件の主犯で平成4年に刑務所を出所した近藤忠雄だった。そして、持っていたピストルは平成6年9月14日、住友銀行名古屋支店の畑中和文支店長(54)が射殺された事件と同じピストルと判明した。プロの手口とされていた住友銀行事件は予想もしない展開となった。

 近藤忠雄は自分が犯人と主張し、送りつけた手紙の偽名のイニシャルは「M・Y」で、愛知医大3億円事件でも同じイニシャルを使っていた。しかし当時73歳の近藤がゴルコ13のようにピストル2発で畑中支店長を射殺できるかどうか疑問であった。

 近藤忠雄は愛知医大3億円強奪事件で服役し、平成4年に出所した後は、名古屋市内の元妻のマンションや母親宅で暮らしていた。金遣いが荒く94歳の母親宅を800万円で売却し金を工面したが、借金が雪だるまのように増えていた。住友銀行大阪本店を訪れる直前は、カプセルホテルなどを転々として借金を重ねていた。

 近藤忠雄の供述は信用できず、身代わりの公算が強かった。そのため近藤忠雄は殺人罪には問われず、銃砲刀剣類所持等取締法違反で起訴され、懲役7年の実刑判決となった。