悪魔の飽食

悪魔の飽食 昭和57年(1982年) 

 関東軍731部隊は、中国・満州で秘密下に編成された細菌部隊である。この部隊は約3000人の中国人死刑囚や外国人捕虜をマルタ(丸太)と称して人体実験の材料として殺戮していた。この事実は隠蔽されていたが、終戦から37年後の昭和57年に推理作家森村誠一がその全容を明らかにした。

 森村誠一は731部隊の生存者と接触し、国際法で禁止されている細菌部隊の事実を共産党機関紙「赤旗」に連載、後に光文社より単行本として出版した。「悪魔の飽食」と名付けられたこの作品は、抜群の話題性と内容の残虐性から、読者に大きなインパクトを与えた。「悪魔の飽食」は昭和57年のベストセラーとなり300万部、その続編は150万部を売り上げた。

 さらに「悪魔の飽食」は別の問題も生じさせた。本に使用された写真35枚のうち20枚が、実際の731部隊のものとは違う偽物であることが判明したのだった。発行元の光文社は新聞紙上に謝罪文を出し、本を回収して絶版とした。しかし、後に偽の写真や証言内容を削除し、新たに加筆した「新悪魔の飽食」を角川書店が発売し、現在でも入手可能である。

 中国東北部のハルビン市郊外20キロ南のところに平房という大草原がある。日本陸軍は細菌学の権威・石井四郎軍医中将に命じて、この平房に731部隊(細菌部隊)をつくった。6平方キロという広大な敷地に、人体実験を行う秘密施設を建設し、警備は厳重で施設の周囲は立ち入り禁止区域となっていた。施設上空は日本軍の飛行機でさえ通過が禁止され、陸軍内部でもその存在を知るものはごく一部であった。

 周囲には高さ3メートルの土塁が積まれ、外郭には鉄条網が何重にもめぐらされ、外側は深い堀になっていた。ハルビン駅から731部隊までは、特別に鉄道が敷かれ、すべての研究資材は鉄道によって運ばれた。施設内には兵士の姿はほとんどなく、軍医ばかりが目立った。中で働く研究員の数は、当初3000人だったが後に6000人に増強された。

 人体実験用の人間はマルタと呼ばれ、マルタとは軍法会議で裁かれた反日運動の死刑囚を意味していたが、実際には無実のロシア人、満州人、蒙古人が含まれていた。マルタは夜間にハルビン駅まで憲兵に護送され、そこから専用輸送車で731部隊施設に連行された。マルタには憲兵が付き添い、皆が後ろ手に縛られ、貨車から数珠つなぎに降ろされた。

 マルタはペスト菌、チフス菌、コレラ菌、壊疽菌、破傷風菌などの感染実験に用いられ、感染状況の観察、治療法の研究が行われた。細菌兵器は安価で殺傷効果の高い兵器であるが、ジュネーブ条約で禁止されていた。しかし資源の乏しい日本は、細菌兵器を実戦用にしようとしていた。銃撃戦は対象が限られているが、細菌兵器は感染者がヒトからヒトへ無差別に広がり、しかも殺傷能力が高かった。

 731部隊の目的は救命できない強力な病原菌を作ることであった。そのためマルタは感染から回復しても、すぐに別の実験に使われ、実験としての価値を失うと病理解剖が行われ、施設の焼却炉に放りこまれた。遺体は灰になるまで焼却され、粉末になった骨は周囲にまかれ証拠隠滅が図られた。このような運命をたどったマルタが数千人いたのである。

 とりわけペスト菌を感染させたペスト蚤(のみ)は、731部隊が実用化した秘密兵器で、ペストを感染させた蚤を穀物と一緒に空中散布したとされている。731部隊は細菌兵器だけでなく、毒ガスや凍傷の実験も行っていた。

 終戦により731部隊が解散するとき、隊員は「人体実験の事実を墓場まで持っていくように」と命じられ、「捕虜になったら自殺するように」と青酸カリを渡された。隊員は「軍歴を隠すこと、経歴が分かるので公職に就かないこと、隊員相互の連絡をしないこと」をも命じら、そのため研究員は、家族や親戚にも過去を隠し改名して住所を転々とした。

 731部隊が公にならなかったのは、GHQ(連合国軍総司令部)が免責を条件に、細菌戦や生体実験のデータを入手したからとされている。隊員の多くは、身を隠すような生活を送っていたが、幹部は各地の医学部の教授や研究所の所長となった。金沢大教授・石川大刀雄、兵庫医大教授・岡本耕造、京都大医学部・田部井和、京都府立医大・吉村寿人、長崎医大教授・林一郎などである。 

 軍医中佐だった池田苗夫は、昭和42年12月と43年8月の日本伝染病学会雑誌(41巻9号、42巻5号)に「流行性出血熱の流行学的調査研究」という論文を発表している。これは昭和17年に731部隊が満州で行った流行性出血熱の調査記録であった。日本の医学界に731部隊の反省がなかったことが分かる。

 昭和25年、朝鮮戦争勃発から5カ月後に血液バンク「日本ブラッド・バンク」が設立された。この「日本ブラッド・バンク」は薬害エイズの原因となった「ミドリ十字」の旧社名であるが、設立者の内藤良一は陸軍軍医学校・防疫研究室の主任で、その上司は731部隊の総参謀・石井四郎軍医中将だった。731部隊長だった北野政次が東京の工場長となり、石井中将の京大時の指導教官だった木村廉が会社の顧問になっている。

 石井四郎軍医中将はヨーロッパ視察でナチスの細菌研究知り、細菌研究の必要性を軍に勧めたのである。戦争は人間を狂気に追い込み、非人道的な行為に駆り立てるが、3000人を人体実験に用いた731部隊の実体は長い間封印されていた。戦時中の医学は軍部の下にあり、731部隊は陸軍軍医部の命令での創設された。隊員たちは軍の命令に逆らうことができず、そのため軍医たちは731部隊の役割を知らずに入隊したと信じたい。

 隊員たちは口を固く閉ざし、自らの過去を胸に秘め、苦悩を背負って生きたのであろう。戦争が生み出した狂気と悲劇は、歴史の清算を受けず、忌まわしい記憶として個人の心に重くのしかかっていたであろう。

 この日本軍の闇に隠された組織的犯罪を森村誠一は「悪魔の飽食」で告発したのである。出版当時、日本の中国侵略という言葉をめぐり教科書論争が活発だった。そのような対立の中で、日本の恥部を暴くのはけしからんとする者が多くいた。出版社には抗議の電話が鳴り響き、脅迫状が連日郵送された。

 森村誠一は執拗な脅迫を受けながら、中国関係者からの証言、米国の公文書などの資料を参考に、「悪魔の飽食」の第3部を書き角川書店から出版した。第3部で写真の掲載ミスの経緯を明らかにしている。