川崎病

川崎病 昭和57年(1982年)

 昭和36年1月5日、東京・広尾の日赤中央病院(現日赤医療センター)の小児科に、4歳3カ月の男の子が入院してきた。高熱、頸部のリンパ節腫脹、手足の硬性浮腫、眼球結膜は充血し、口唇は赤く腫れ、舌にはイチゴのような赤いブツブツが見られた。皮膚には不定形の発疹が見られ、1週間後に手足の指先の皮膚がむけた。

 猩紅熱(しょうこうねつ)に似ていたが、皮疹の性状が違っていた。猩紅熱の特効薬ペニシリンを投与しても効果は見られず、咽頭培養、血液培養を繰り返したが、起因菌は検出されなかった。そのためアレルギー性疾患を考え、ステロイド剤を投与したが効果はなかった。

 Stevens-Johnson症候群の亜型も考えられたが、皮疹の性状が違っていた。この男の子は、2週間後に自然に軽快して退院となった。主治医の川崎富作医師(35)は、カルテに「診断不明」と書いた。1年後の昭和37年1月、同じ症状の小児が入院してきた。川崎富作は考え込んでしまった。果たしてこの病気は猩紅熱なのか、あるいは猩紅熱の亜型なのか、それとも新しい病気なのか。

 同じような乳幼児が昭和37年だけで7人が入院した。同年11月、川崎富作はこれらの症例を第61回日本小児科学会千葉地方会総会で発表した。演題名は「非猩紅熱性落屑症候群について」(千葉医学会雑誌 1962;38:279)であった。

 この疾患の特徴は「抗生剤が効かず、39℃以上の高熱が5日以上続き、通常の解熱剤では熱が下がらず、発熱の翌日に発疹が躯幹(くかん)とおむつの周囲に現れ、数日のうちに口腔粘膜にも発疹が出現。唇は口紅を塗ったように赤くなり、イチゴのように赤い舌となった。両眼は赤く充血し、手足も光沢を帯びて赤く腫脹した。指と足指の皮膚はむけ、頸部のリンパ節は腫れて軽い圧痛が見られた」。

 同じような患者が次々に集まり6年間で50例に達し、これらの症例を論文としてまとめ「指趾の特異的落屑を伴う小児の急性熱性皮膚粘膜淋巴腺症候群:自験例50例の臨床的観察」(アレルギー1967;16:178)の演題名で発表した。この論文は原稿用紙二百数十枚、10枚カラー写真付きという膨大なもので川崎病の原著として知られている。

 小児科部長の神前章雄は、川崎富作の論文に多くの助言を与えた。そのため川崎富作が著者名に神前章雄の名前を加えようとしたが、「これは君1人がやった研究だから」と言って自分の名前を赤鉛筆で削除した。部下の仕事は上司の功績とされていた医学界において、神前部長の行為は極めて立派なことであった。

 この論文が発表されると、小児科学会で論争となった。同じような症例を自衛隊中央病院・松見富士夫が3例、聖路加国際病院小児科医長・山本高治郎が20例経験していた。さらに多くの症例が日本各地で発表され、川崎病は1つの独立した疾患と捉えられるようになった。

 昭和49年に、川崎病をPediatric誌に発表(Kawasaki T、 et al: 1974;54:271)すると、世界的反響を呼ぶことになる。昭和53年、WHOは正式な疾患として川崎病を認め、昭和54年、世界的に有名な小児科の教科書であるNelsonの「Textbook of Pediatrics」に掲載されることになった。病名は、Mucocutaneous lymph node syndrome(Kawasaki disease)と書かれている。

 この病気は一過性で予後良好な疾患と思われていた。しかし全国調査を行った結果、驚くことが分かった。昭和45年の全国調査で、1857例中26例が突然死していたのである。川崎病患者の中に突然死を来す者がいたのだった。

 昭和47年、都立墨東病院で5歳の男の子が、川崎病から半年後に心筋梗塞を起こし、東京女子医科大で大動脈造影を行い冠動脈瘤が発見された。この症例が川崎病の病態解明のきっかけとなった。川崎病のおよそ5〜20%が心臓の冠動脈に瘤を形成し、心筋梗塞から突然死することが分かった。

 心臓の働きは、心筋を収縮させて血液を全身に送ることである。川崎病に罹患すると、冠動脈(心臓に血液を送る栄養血管)に炎症(血管炎)を起こし血管が細くなった。そのため細くなった冠動脈の手前の内圧が高まり、冠動脈が風船のように膨らんでしまうのである(動脈瘤)。この瘤の中にできた血の固まり(血栓)が冠動脈を閉塞させ、心筋に必要な血液を送れなくする。つまり、症状は成人の狭心症や心筋梗塞と同じで、心臓発作や突然死を起こすのだった。この冠動脈の動脈瘤は、発症2〜4週間後から始まり、元気に回復した小児が心筋梗塞で突然死亡した。両親にとってこのことは恐怖であった。

 昭和54年に川崎病が流行、昭和57年には全国的な大流行となった。朝日新聞社の科学部記者・田辺功は、昭和57年5月29日、朝日新聞の社説で「日本で見つかり、日本に集中している川崎病の解決に、官民協力して研究費をつぎ込む必要がある」と書いた。昭和57年9月23日には、東京で「川崎病の子供をもつ親の会」が発足した。

 川崎富作が報告して以来、同じような症状の子供が海外でも見いだされ、米国でも毎年100例の川崎病が発症している。米国の患者数は日本の50分の1であるが、日本の数倍の研究費がつぎ込まれた。

 川崎病の正式名は、「小児急性熱性皮膚粘膜リンパ節症候群(muco-cutaneous lymphnode syndrome)」でMCLSと略称されているが、発見者の川崎富作の名前から、川崎病と呼ぶのが一般的である。WHOや米国国立防疫センターではこの病気を正式に川崎病(Kawasaki Disease)と呼んでいる。

 厚生労働省研究班によると5歳以下の小児に発症しやすく、患者数は16万9000人、年間6000人が発症するとしている。原因は不明で検査上の特徴的所見がないので、診断は臨床診断による。5日以上続く発熱と5つの身体的変化(発疹、手足の腫れ、赤い眼、唇と口の変化、リンパ節腫大)のうち、4つがあれば川崎病と診断される。

 川崎病患者の約80%の冠動脈は正常で、川崎病はリウマチ性疾患のように慢性化することはない。しかし川崎病の1〜2%が心臓の合併症で死亡する。死亡例の50%以上が1カ月以内、75%が2カ月以内、95%が6カ月以内に死亡する。冠動脈の直径は正常では1〜2ミリであるが、8ミリを超える巨大冠動脈瘤も見られ、心臓超音波検査で冠動脈瘤をとらえることができる。動脈瘤の治療法として、昭和50年に大阪大の川島康生と北村惣一郎が日本で初めて川崎病の冠動脈バイパスの手術を行っている。

 川崎病は感染症あるいはアレルギー疾患とされ、当初は抗生剤やステロイドによる治療がなされていた。しかし、ステロイド療法の効果は次第に疑われ、東京女子医大の草川三治が「アスピリンが効果的」と報告して以来、アスピリン療法が定着している。昭和58年には、小倉記念病院小児科の古庄巻史がガンマグロブリン療法を開発、このガンマグロブリンの点滴療法により、冠状動脈障害の危険性が軽減した。

 小さな動脈瘤はアスピリンだけで治療するが、動脈瘤が大きい場合はアスピリンにワーファリンを加えて投与するようになった。小児がインフルエンザや水痘にかかった場合には、アスピリンはライ症候群の危険性があるため、アスピリンの代わりにジピリダモールを一時的に用いることがある。

 このような治療により、冠動脈病変の合併を防ぐことが可能となった。ガンマグロブリンの点滴静注により、冠状動脈障害の危険性が軽減し、心臓に後遺症がなければ、学校での運動制限は必要ない。直径4ミリ以下の冠動脈瘤は1年以内に自然に改善し、4〜6ミリの患者の70%は1〜2年で正常となるが、8ミリ以上の動脈瘤の場合、半数が狭窄を来すことから血栓予防が必要となる。

 最近の治療の進歩により、冠状動脈の動脈瘤は少なくなり、冠動脈の拡大が12.97%、動脈瘤1.36%、巨大瘤が0.29%の頻度となっている。血管狭窄が高度の場合、バイパス手術を行うことがある。

 川崎病の原因は不明である。川崎病の症状が狸紅熱に似ていたため、川崎病が初めて報告されたころはA群レンサ球菌説が有力であった。しかし抗生剤が無効で患者から菌が検出されないことから、A群レンサ球菌説は否定され、そのほかウイルス感染、リケッチア感染症説、水銀中毒説、ダニ抗原説も議論されているが、いまだに原因は分からない。

 現在、画像診断や治療の進歩により、多くの患児を救うことが可能になったが、川崎病の小児が成人になってから心筋梗塞を起こしやすいことが注目されている。小児期に川崎病を経験した成人がすでに5万人を超えており、川崎病の長期後遺症としての動脈硬化が心配されている。

 大正14年に生まれた川崎富作は、千葉医科大学付属医学専門部卒である。川崎富作が偉いのは、臨床医として鋭い観察力を持っていたことで、最初の川崎病患者の病名を「診断不明」と書いたことが、臨床医としての力量を示している。