富士見産婦人科病院事件

富士見産婦人科病院事件 昭和55年(1980年)

 昭和55年9月11日、埼玉県警は所沢市・富士見産婦人科病院の北野早苗理事長(55)を無免許の医師法違反で逮捕。翌日の朝日新聞朝刊は「健康なのに開腹手術、無免許経営者が診断、次々に子宮を摘出」という衝撃的な見出しでこの事件を全国に報じた。

 地元の所沢市では、以前から「富士見産婦人科病院が乱診乱療のでたらめを行っている。女性の子宮を食い物にしている」とうわさがあった。周辺の医療関係者たちは、警察の捜査がいつ入るのかを注目していた。

 北野理事長は医師免許がないのに診療していたことから逮捕されたが、関係者が抱いた最大の疑惑は、北野理事長の診断で、医師たちが行った手術が妥当なものかどうかであった。この事件は北野理事長から「子宮筋腫、卵巣膿腫で手術をしないと命が危ない」と告げられた患者が、念のために防衛医大などを受診、「子宮や卵巣は正常で手術の必要はない」と診断されたことが発端であった。しかもこのような患者は1人や2人ではなかった。被害者は最初の起訴だけでも66人に達していて、この事件がいかに多くの被害者を生んでいたかが想像できる。

 北野理事長は医師の資格がないのに医師を装い、超音波診断装置を用いて多くの患者を診察した。子宮筋腫、卵巣膿腫、卵巣がんなどと診断し、必要のない子宮や卵巣の摘出手術を医師に指示していた。北野理事長は、妻の千賀子院長(54)やほかの医師たちを牛耳り、目的は医療ではなくすべてが金儲けだった。北野理事長が撮影した超音波検査の写真が鑑定されたが、何が写っているのか判別できない写真ばかりであった。

 この事件が報道されると、所沢保健所やマスコミに患者からの告発が殺到した。北野理事長から「あなたの子宮は腐っているので手術が必要」「卵巣がはれてぐちゃぐちゃだ。卵巣が破裂して命取りになる」。このように言われた患者の証言が相次いだ。

 北野理事長は、患者を脅して手術に同意させ、健康な臓器の摘出を医師に指示していたことが疑われた。富士見産婦人科病院は約50床の病院であるが、同規模の産婦人科病院が行う手術数の4倍の手術をしていて、病名のほとんどが子宮筋腫であった。埼玉県衛生部がまとめた調査では、富士見病院で異常と言われ、他の病院で正常と診断された患者は243人であった。

 摘発後の9月20日、患者たちは所沢市内で「富士見産婦人科病院被害者同盟」を結成。被害者同盟は北野理事長と妻の千賀子院長、勤務医らを傷害罪で埼玉県警に告訴した。10月1日には、不必要な臓器摘出手術など乱診乱療による被害者は1138人に及んだ。

 11月17日、埼玉県警は千賀子院長ら医師5人を医師法違反幇助(ほうじょ)罪容疑で逮捕。女子職員を保健婦助産婦看護婦法違反容疑で書類送検とした。マスコミは「医療の名に値しない極めて悪質な乱診乱療」と連日報道した。11月18日、警察庁、国税庁、厚生省の3省庁は、富士見産婦人科病院の乱診乱療を効率的に対処するため3省庁連絡会議を設置した。

 12月3日、埼玉県は富士見産婦人科病院と医師に対し、保健医療機関の取り消しと保険医登録取り消しの処分を行い、同病院は病院休止届を出すことになった。また被害者同盟は富士見産婦人科病院のでたらめぶりを防衛医大に訴え、その協力を求めた。防衛医大の若手医師からも告発の動きがあったが、防衛医大が所沢に進出するとき、地元の反対を押し切った経緯があったため、防衛医大は地元の問題には口を出さない方針を立てていた。さらに所沢医師会は「北野理事長やほかの医師は医師会員ではないので、追及することはしない」と逃げ腰であった。

 当時の日本は、高度経済成長の時代である。埼玉県所沢市も東京のベッドタウンとして急速に発展し、10万人だった所沢市の人口が10年間で23万人に増加していた。新しい住民にとって、あるいは若い女性にとって、昭和42年に建てられた6階建てのデラックスな富士見産婦人科病院は近代的病院と映った。

 富士見産婦人科病院は最新の医療機器を導入し、派手な宣伝と口コミで多くの患者を集めていた。所沢に引っ越してきた若い女性たちは、高級な外観と宣伝に引き寄せられた。病院内には美容室やアスレチック室、ラウンジなどがあって、一流ホテルを思わせる豪華な設備であった。高級志向をくすぐられた新住民を中心に患者が集まった。

 富士見産婦人科病院は、表向きは近代的病院と映っていたが、医師の資格のない北野理事長が超音波装置を使い、健康な婦人に適当な病名をつけて患者を増やしていた。

 北野理事長は乱診乱療を繰り返しながら政治にも顔を出し、多額の金銭を政界にばらまいていた。当時の斎藤邦吉厚生相、渋谷直蔵元自治相、清水徳松社会党衆院議員、山口敏夫新自由クラブ幹事長などの衆院議員。さらには国家公安委員長、所沢市長、県会議員、市会議員、また共産党議員にも多額の政治献金を出していた。斎藤厚生相は、総額4000万円の政治献金を受け取っていたことが報道され、大臣を辞任した。

 多額の政治献金は、金権政治の現状と事件をもみ消すための賄賂(わいろ)を感じさせた。事件が発覚する前、患者が所沢市役所に「不当な手術をされた」と苦情を言ったが、市役所は北野の影に脅え調べようとしなかった。北野理事長は所沢市長に500万円を献金、市長選では対立候補を恫喝(どうかつ)して辞退させていた。所沢市政に顔が利き、准看護学院の審議会の委員になり、市の有力者として実力をつけていた。

 この事件の最大の焦点は、患者が受けた治療が適切だったかどうかである。正当な手術かどうかが、鑑定医師団の間でも意見が分かれ、捜査は難航した。被害者同盟は北野理事長と北野院長ら医師5人を傷害容疑で告訴した。

 昭和56年11月30日の朝日新聞は、警察が押収した臓器40人の大半は手術の必要がなかったと報道した。昭和57年3月14日、埼玉県警は勤務医だった2人の医師を傷害罪容疑で書類送検としたが、その1年半後の昭和58年8月19日、浦和地検は埼玉県警が立件した傷害罪すべてを不起訴処分にしたのだった。浦和地検が不起訴処分にしたのは、「手術の同意書にサインをしていること、症状があって病院を受診したのだから病気があっても不思議ではないこと、たとえ正常な臓器を摘出しても医師が総合的に判断して手術をしたのだから、医師の裁量権の範囲内」という理屈であった。現在ではこのような理屈が通用するはずはないが、これが当時の地検の判断で、患者が求めていた傷害容疑の立件はなされなかった。

 昭和63年1月29日、浦和地裁は医師法違反などで北野理事長に懲役1年6カ月(執行猶予4年)、千賀子院長に懲役8カ月(執行猶予3年)の有罪判決を下した。東京高裁もこれを支持したため刑が確定した。裁判官は千賀子院長に「医療を私物化し冒涜(ぼうとく)するもの」と激しく非難したが、判決は執行猶予が付くものだった。また北野理事長にも「担当医は患者の症状などから総合的に手術を決め、超音波検査をそのままうのみにしたのではない」とした。

 事件が発覚してから、埼玉県警はカルテ、レントゲン、臓器など大量の証拠品を病院から押収していたので、患者は自分の資料を見たくても見ることができなかった。裁判でも埼玉県警が押収した摘出臓器の鑑定結果は公表されず、被害者が最も重視していた手術の正当性は裁判の争点にはならなかった。

 昭和56年5月、患者ら67人は「正常な子宮や卵巣を摘出された」として病院関係者と県と国を相手に総額14億円の損害賠償を求める訴訟を起こした。平成11年6月30日、18年間もの審議の上、東京地裁・伊藤剛裁判長は被害者の主張を認め、病院側に5億1400万円の支払いを命じた。18年間、被害者の女性たちが戦ってきたのは、病院ぐるみの医療犯罪、治療に名を借りた傷害行為を証明したかったからである。極めて悪質な乱診乱療を民事でも厳しく指弾したのだった。

 さらに集団犯罪的な乱診乱療であるとして、北野院長や理事長だけでなく、富士見産婦人科病院の勤務医についても、全員が共同不法行為の責任を負うべきとした。全摘出を受けた患者は1000万円、一部摘出患者は300万円を基準に賠償額を認定した。国と県については「予見可能性がなく、責任は認められない」と述べ、賠償請求は棄却された。

 病院は5億1400万円の賠償金の支払いを命じられたが、病院はすでに廃院し、北野夫妻は破産宣告しており、彼らから賠償金が支払われる見込みはなかった。賠償金を取れるとしたら当時の勤務医からであったが、勤務医たちは控訴した。勤務医の弁護人は控訴の理由として「判決では乱診乱療としているが、5人の元勤務医は正当な診察や手術をしており、まじめに勤務していた。国や県の責任は問わずに、経営者側は破産者となり、元勤務医だけが実質的に責任を負わされるのは不当」とした。

 しかし平成16年7月13日、最高裁は4人の勤務医の上告を棄却し、提訴から23年を経てやっと決着した。1人の勤務医は控訴審中に死去していたが、死亡した医師の遺族が和解に応じ1億5000万円を支払った。

 平成17年3月2日、厚生労働省の医道審議会は北野千賀子元院長(78)の医師免許取り消し、元勤務医ら3人を2年から6カ月間の医業停止とした。事件が表面化してから4半世紀後の行政処分であったが、北野千賀子元院長は処分取り消しを求める訴えを東京地裁に起こし、処分の是非は法廷で争われることになった。

 なお千賀子元院長は帝国女子医専(現東邦医大)を昭和24年に卒業。勤務医4人は東京医専(現東京医大)26年卒、女子医大27年卒、慈恵医大28年卒、弘前大医学部39年卒であった。

 勤務医は、医学雑誌に掲載された求人広告を見て就職したのだが、北野理事長に操られながら勤務していたと想像される。彼らは医師として、あるいは人間として、どのような気持ちで人生を送ったのだろうか。富士見産婦人科事件の共犯者というよりも、ある意味での被害者だったのではないだろうか。