宇都宮病院職員リンチ事件

宇都宮病院職員リンチ事件 昭和59年(1984年)

 昭和45年3月5日から、朝日新聞の記者・大熊一夫による「ルポ・精神病棟」の連載が始まった。悪臭と寒気に包まれた劣悪な監禁室、リンチ代わりに行われる電気ショック、牢番(ろうばん)となっている精神科医、政党の選挙応援を患者に強要する病院。紙上に掲載されたのは、恐ろしいまでの精神病院の実態だった。

 記事では、治療を受けている患者よりも、精神病院そのものが狂気に満ちていると指摘した。このレポートは国民の関心を呼び、国会では野党が事実関係を追及、日本精神病院協会は各精神病院に自戒を呼びかけた。この「ルポ・精神病棟」は、大きな社会問題となったが、実際には「臭いものにふた」の対応だけで、何ら改善はみられなかった。このようなとき、宇都宮病院リンチ事件が発生した。

 昭和59年3月14日、朝日新聞は栃木県宇都宮市の報徳会・宇都宮病院(石川文之進院長)で、患者2人が職員からリンチを受けて死亡していたとスクープした。死亡したのは、看護職員が鉄パイプなどで殴りつけた撲殺によるものであった。さらに大勢の患者を前でこのようなリンチが日常的に行われていると報じた。この新聞記事がきっかけに、マスコミに尻をたたかれた警察は、やっと重い腰を上げた。昭和59年3月29日、栃木県警は看護職員ら5人を傷害致死容疑で逮捕した。

 警察が逮捕を躊躇(ちゅうちょ)したのは、裁判になった場合、精神障害者の証言がどこまで認められるかであった。たとえ証言時は正常でも、事件時に異常だったといわれれば、裁判がどうなるか分からなかった。さらに警察には宇都宮病院に恩義があった。宇都宮病院は警察が手を焼くような困り者でも喜んで入院させていたからで、また宇都宮病院の事務局長は、かつて所轄署の次長だった。

 最初の殺人は、昭和58年4月24日に起きた。昭和44年から精神分裂病(統合失調症)で入院していた男性患者(32)が、食事の内容に不満を漏らしたことが発端になり、看護職員と口論。看護職員は点滴台の鉄パイプを持ち出し、ほかの患者の前で、背中や腰を20分にわたって殴り続けた。全身を乱打された患者は、顔面蒼白(そうはく)となり、患者仲間がベッドに運びこんだが嘔吐を繰り返して死亡した。その日の当直医は石川院長であったが外出していて、看護師が心臓マッサージを繰り返したが蘇生しなかった。この患者の死因について、石川院長はてんかん発作による心臓衰弱と家族に説明していた。

 次の殺人は、同年12月30日にアルコール依存症で入院していた患者(35)が、見舞いに来た家族に病院の待遇のひどさを訴えたことがきっかけであった。患者どうしのけんかに3人の看護職員が加わり、患者を袋だたきにしたのである。患者は血を吐いて翌日死亡した。この事件について、石川院長は遺体には暴行を思わせる傷がなかったので、病死としたと釈明した。

 この2つの殺人事件の捜査により、宇都宮病院の「殴る蹴(け)る」の暴力体質が次々に暴露していった。しかし2つの殺人事件は氷山の一角で、精神病院という隠れたベールの中で、看護職員による暴行暴力が日常的に行われていた。宇都宮病院の殺人事件は、人の生命を預かるはずの病院で起きた事件だけに、国民に与えた衝撃は大きかった。

 昭和36年に開設された宇都宮病院は、ベッド数920床の大規模な病院で、ベッド数では大学病院に匹敵する大きさであったが、常勤医師はわずか3人で、職員の人数も基準の4割と少なく定着率も悪かった。看護師の数は医療法による適正基準の半分にも満たなかった。

 入院患者の入院日数は異常に長く、患者の死亡数も昭和56年からの3年間で222人と多かった。この死亡した患者の中で少なくても6人が、暴行による死亡の疑いが持たれていた。密室による暴力行為が日常的に行われ、石川院長は看護職員の暴力行為を黙認していただけでなく、回診時にはゴルフのアイアンを持ち病室を回っていた。クラブで患者を殴り、あるいは患者に襲われないように威圧した。院長の回診は週に1回で、診察時間は1人あたり数秒にも満たなかった。

 宇都宮病院の異常は、患者への暴力行為だけでなく、そのデタラメぶりが次々に発覚していった。石川院長は作業療法と称して、患者に自宅や病院の増築・造園を手伝わせ、同族企業の自動車学校やスイミングスクールの用務員として無給で雑役係をやらせていた。乱脈として際だっていたのは、症状の軽い患者を準職員扱いにして、病院業務を手伝わせていたことである。患者は白衣を着せられ、食事の配膳温、度板、看護日誌、脳波、心電図、さらには注射や点滴などの看護業務までやらされていた。

 患者が病院職員と同じように働き、患者がいなければ病院は機能しないとまでいわれていた。タバコなどの報酬を与え、患者を管理する「患者職員」を作り、職員として働かせていた。事務職員にも白衣を着せて無資格診療をさせていた。

 病院は患者の預金通帳を管理し、生活保護の患者に振り込まれた生活費をピンハネし、数千万円が行方不明になっていた。さらに違法な蓄財も発覚し、法人税2億円の脱税も発覚し、まったくデタラメな経営であった。

 宇都宮病院はこのようにひどい病院であったが、それを隠すように、15人の東大元教授や助教授などが宇都宮病院の非常勤として名前を連ねていた。この東大を中心とするスタッフは、病院の威厳を高め、病院の乱脈を隠すのに都合がよかった。

 東大の医師にとっては、豊富な症例を持つ宇都宮病院は研究に好都合であった。それを裏付けるように、宇都宮病院を対象とした医学論文は200編を超えていた。文句を言わない患者は医師にとって好都合で、許可を得ないで死亡患者の脳の解剖を行うなどの違法行為が行われていた。東大の医師の多くは基礎医学や臨床研究者で、患者の病気をよくするための研究ではなく、患者を研究のためのモルモットとみていた。

 宇都宮病院事件は、日本の精神医療に大きな問題を投げかけ、この事件をきっかけに精神医療の在り方が大きく変わることになる。それまでの精神医療は入院中心主義で、この入院中心主義が精神病院の密室性、行政との癒着を生む温床になっていた。米国の非政府組織(NGO)は、国連人権小委員会に「日本の精神障害患者の取り扱いは人権侵害にあたる」と告発したが、宇都宮病院は日本の精神医療の裏側をさらけ出すことになった。

 この事件の背景には、石川文之進院長の拝金主義があった。石川院長は、昭和24年に阪大医専を卒業すると、昭和36年に宇都宮病院を開設。宇都宮病院は、家族から見放された患者やほかの病院が嫌がるやっかいな患者を引き取ることで有名であった。関東一円から、アルコール依存症や覚醒剤中毒などの患者を積極的に集め、そのため周辺の病院や警察から便利がられていた。

 病院は拡張工事を繰り返し、昭和58年には920床の大病院になった。以前から患者の事故死が多いとされてきたが、何といってもやっかいな患者を引き受けてくれる病院の存在は大きかった。問題の多い患者は、どの病院でも受け入れを拒まれるのが現状で、治療よりも治安が優先され、患者は病院に閉じこめられ、まさに恐怖の収容所であった。石川院長の実弟が有力な県会議員で、行政や政界にもコネがあった。そのため病院に警察が入るとは思っていなかった。

 精神障害、覚せい剤中毒、アルコール依存症などの患者は社会の受け皿がなく、家庭、警察、行政、病院などをたらい回しになることが多かった。このような背景から、患者を精神病院という檻(おり)に入れ、外から見えないようにふたをするのは周囲にとって都合がよかった。また正常な人間も、家族との不和を理由に病院に送り込まれた。栃木県衛生環境部は治療の必要性を調査したが、入院の必要のない患者が多数いること、さらには医療の必要がない者も多く含まれていることが分かった。

 事件発覚後、土葬された遺体が発掘され、暴行の事実が裏付けられた。宇都宮地裁はこの殺人事件で、元看護職員に懲役4年の実刑判決を下した。石川院長も保健婦助産婦看護婦法違反で逮捕され、最高裁で懲役8カ月の実刑の判決を受けた。また医道審議会は石川院長に医業停止2年を言い渡した。

 東大は、宇都宮病院に関係した6人の教官に対して厳重注意の処分を行った。その理由として、患者の利益を考えずに研究を行ったこと、宇都宮病院の異常性を知りながら注意しなかったこと、東大教官が病院にその地位を利用されたことなどが挙げられた。さらに、宇都宮病院に関係した論文に名を連ねた東大の精神科医たちは、精神神経学会でその責任を追及された。

 精神病院の暴力体質は宇都宮病院だけではなかった。事件が発生する以前にも、精神病院での暴行事件が頻回に起きていた。昭和43年12月24日、大阪府北河内郡の栗岡病院で患者が集団脱走を計画。それを知った院長らが13人の患者をバットなどで殴り、男性患者1人を死亡させている。昭和44年3月22日には、大阪府柏原市の大和川病院で、病院から逃げようとした患者を看護職員3人が暴行して殺害。昭和54年8月2日、同じ大和川病院で布団の中でたばこを吸っていた患者を、看護職員3人が殴り殺している。

 宇都宮病院の職員は、ほかの病院では引き取らない患者を受け入れている自負心が、はき違えた使命感になり、次第におごりの気持ちに変わっていた。患者は病院に白紙委任を渡し、治外法権の中で、患者の人権が闇から闇に葬られていった。精神障害患者を病院に閉じこめる密室的な精神医療が、この事件を生んだといえる。

 宇都宮病院の事件は、患者の人権無視にあることは明確であるが、その一方で宇都宮病院が治安に役立っていたことも事実で、地元での評判は悪いものではなかった。社会全体が「姥捨て山」を求めていたのだった。

 この事件によって、170人の患者が退院となった。栃木県が委託した精神科医によって措置入院患者(自傷、他傷の恐れのある者)とされていた6割が措置を解除されて退院した。しかし、退院直後にナイフで宇都宮駅職員を切りつけた者、無免許で自動車の当て逃げをした者、自宅で母親を殺害した者、行き倒れになった者などが続出した。そのため危険な患者を退院させたことで、栃木県が逆に問われることになった。このように精神医療は複雑な事情を含んでいた。

 この事件は精神病院が、密室でゆがんだ体質を知らしめたことでは大きな意味を持っていた。このリンチ事件をきっかけに、精神医療はそれまでの閉鎖病棟中心から開放病棟中心に、入院治療から外来治療へと変わっていった。さらに患者の人権と社会復帰を明文化した精神保健法が成立することになった。