嫌煙権

【嫌煙権】昭和53年 (1978年)

 昭和53年2月18日、東京・四ツ谷で「嫌煙権確立をめざす人びとの会」の結成集会が開かれた。全国から約60人が参加して、「たばこを吸わない人のたばこへの嫌悪感と健康被害」を訴えた。嫌煙権は喫煙者に禁煙を迫るものではなく、非喫煙者が不当な煙害を受けないことを目的としていた。嫌煙権という言葉は、日照権にヒントを得て、昭和51年にコピーライターの田中みどりさんがつくったものである。

 この耳新しい嫌煙権という言葉は多くのマスコミが取り上げ、嫌煙運動が盛り上がることになった。運動方針は、病院、保健所、公共の施設、乗り物などで、禁煙ゾーンを拡大すること、たばこのコマーシャルを全廃させることであった。

 予防がん学研究所の平山雄所長は、昭和41年から16年間にわたり、40歳以上の妻9万1540人を追跡調査し、「夫のたばこと妻の肺がん罹患との関係」について、夫が1日20本以上たばこを吸う場合、妻はたばこを吸わなくても肺がんで死亡する危険率が1.91倍高くなると発表した。さらに、たばこの煙で汚染された空間にいると肺がん、喉頭がん、心臓病などになる危険性が増加するとした。

 米国や欧州ではすでに、テレビ、ラジオによるたばこのコマーシャルは法的に禁止されていた。さらに公共の場所での喫煙を制限し、職場での分煙も行われ、米サンフランシスコでは、オフィス内の喫煙を規制する嫌煙条例が成立していた。国内では、分煙を求めるキャンペーンが展開され、国鉄(現JR)の全列車の半数以上を禁煙車とする「嫌煙権訴訟」(昭和55年4月7日)が嫌煙権の確立を目指した裁判として社会的な注目を浴びた。

 この訴訟がきっかけとなり、国鉄は昭和55年10月から、新幹線「ひかり」の自由席の1両を禁煙車とした。続いて昭和57年11月からは、全国の特急列車の自由席1両を禁煙にした。嫌煙権訴訟は7年後の昭和62年、東京地裁の橘勝治裁判長は損害賠償の請求については受忍限度内といて原告敗訴とした。しかしたばこの有害性については喫煙者だけでなく、間接喫煙に関しても喫煙者と同じ害を受ける恐れがあることを指摘した。つまり喫煙者は加害者であることを法的に認め、この裁判を通じて「嫌煙権」(Non−smoker's right)という新語が市民権を得た。

 職場の喫煙規制に関しては、昭和40年、東京都下の三鷹市役所が新庁舎を改築した際、庁舎内各階に喫煙室を設け、分煙のモデルケースとなった。当時の嫌煙権はこのような程度であった。現在では、喫煙者は犯罪者扱いで、まさに隔世の感がある。