天然痘撲滅宣言

天然痘撲滅宣言 昭和55年(1980年)

 昭和55年5月8日、世界保健機関(WHO)は天然痘(smallpox)の根絶を高らかに宣言し、種痘の廃止を各国に勧告した。人類の英知によって、かつて何億人もの死者を出した天然痘を地球上から完全に葬り去ったのである。天然痘は人類にとって最も破壊力の強い伝染病だったが、地球上から根絶された最初の感染症になった。厚生省はWHOの根絶宣言を受け、種痘を予防接種から正式に削除した。

 天然痘は天然痘ウイルスによる感染症で、痘瘡(とうそう)と呼ばれていた。天然痘はヒトからヒトへ感染するが、ヒトの天然痘は他の動物内では生存できないという特徴があった。人間の病気として定着したのはおよそ1万年前と推定されている。

 天然痘はインドの地方病だったが、インドから世界へ広がったとされている。紀元前1156年に亡くなったエジプト王ラムセス5世のミイラの顔には、天然痘による痘痕(あばた)が見られ、ミイラから天然痘ウイルスの粒子とDNAが検出されている。2000年前のインドの仏典、中国・周朝の文献にも天然痘の記載が見られ、さらに紀元165年、ローマ帝国では全人口の3割を天然痘で失ったとされている。その後、十字軍の遠征により、天然痘は欧州全土に広がり、年間平均40万人が天然痘で死亡し、欧州ではペストとともに恐怖の的になっていた。

 アメリカ大陸にはもともと天然痘は存在しなかったが、1519年にスペイン人が天然痘を持ち込み約350万人のメキシコ人が死亡、これがインカ帝国滅亡の原因とされている。近年になっても、1967年にはインド、パキスタン、アフリカ大陸で250万人の犠牲者を出している。

 日本には、仏教伝来とともに中国から天然痘がもたらされ、奈良時代から流行を繰り返していた。史書「続日本紀」には、天然痘によって多数の死者が出たことが書かれている。737年の流行では、累々たるしかばねが道を埋め尽くしたと記録され、天然痘の犠牲者は庶民だけでなく、藤原不比等は4人の息子を天然痘で奪われ、そのため政務が停滞するほどであった。さらに聖武天皇の妃(きさき)、光明皇后の兄弟4人が天然痘に倒れ、その冥福を願って建てられたのが法隆寺の夢殿であった。天然痘の猛威を前に、仏教にすがるしかなかった。そのため聖武天皇は仏教への信仰を深め、全国各地に国分寺が建立された。後醍醐天皇、後鳥羽天皇も天然痘に感染し、平安時代の蜻蛉日記には天然痘の詳しい症状が記載されている。このように天然痘は日本人を含む全世界の人たちを苦しめてきた。

 天然痘の伝染力は極めて強力である。例えば、日本脳炎は日本脳炎ウイルスの感染を受けても症状を示すのはごくわずかであるが、天然痘は感染すればほとんどが発症する。天然痘ウイルスは人の唾液に大量に含まれ、せきやくしゃみで空中に散布され、皮膚のかさぶたにもウイルスが含まれ、患者の寝具や衣服からも感染した。

 天然痘はごくありふれた病気で、日本では「お役」と呼ばれ、天然痘は人生における通過儀式的疾患で、そのため子供をいつ失うか分からないという親の心配が常にあった。「天然痘にかからないうちは、女性は美人とは言えない」というシチリアの格言があるほどである。

 天然痘は感染から約10日の潜伏期を経て悪寒戦慄を伴った高熱が出現し、4日目ころから全身に発疹が現われる。発疹は水疱と膿瘍(水ぶくれの中に膿のたまった発疹)が特徴で、膿瘍はかさぶたとなり瘢痕となった。この瘢痕がいわゆる「あばた」である。天然痘の致死率は小児で5割を超え、成人でも2割だったので、その致死率の高さから恐れられていた。

 天然痘への予防法や治療はなく、人々は天然痘の猛威の前に無防備のままであった。ところがインドや中国の地方では、天然痘患者の膿やかさぶたを前もって接種する予防法が古くから伝承されていて、この民間療法は人痘接種法と呼ばれていた。

 欧州では牛の乳搾りが牛の天然痘(牛痘)にかかると、一生天然痘にかからないとされていた。この方法を応用したのが、英国の片田舎の医師エドワード・ジェンナー(1749〜1823年)による種痘である。天然痘によく似た病気が牛、豚、馬などに見られ、それぞれ牛痘、豚痘、馬痘と呼ばれていたが、それらに罹患すると天然痘にかからないという乳搾りの話が、ジェンナーの種痘開発のきっかけになった。

 1789年、ジェンナーは天然痘にかかった豚の膿を生まれたばかりの息子エドワードに接種した。次いで天然痘患者から採った膿を接種したが、エドワードは感染しなかった。エドワードは2歳、3歳時にも天然痘患者の膿を接種されたが平気だった。1796年、ジェンナーは牛の天然痘の膿を8歳の少年フィリップの腕に接種し、6週間後にヒトの天然痘の膿を接種し、天然痘が発症しないことを確認した。

 ジェンナーは豚や牛の天然痘を接種すれば天然痘を予防できることを発見した。つまり弱毒性のウイルスで免疫を獲得すれば、毒性の強いウイルスの感染を受けても発症しないことを見いだしたのである。

 ジェンナーは計12回、23人に及ぶ実験を繰り返し、その成果を論文にして英国立協会に提出した。論文は却下されたが、ジェンナーは「牛痘接種による発疹の原因と効果」と題した本を出版し、ワクチンの安全性と有効性が知れ渡るようになった。この本は世界中で翻訳され、ジェンナーの種痘は何千万人、何億万人もの生命を救うことになる。当時は感染症の原因が細菌やウイルスであることを知らず、免疫のメカニズムも知られていなかった。ジェンナーは、息子と少年を使った人体実験によって、全人類を苦しめてきた天然痘のワクチンを開発、ジェンナーによって天然痘への人類の反撃が始まったのである。

 天然痘の予防ワクチンを種痘というが、小児では5割以上だった天然痘の致死率が、種痘を受けると致死率は1%以下になった。また種痘ワクチンの安全性が高かったことから、抵抗なく使用されるようになった。ワクチンという名前は、後に狂犬病ワクチンを開発したパスツールがジェンナーの業績をたたえ命名したもので、ワクチンはラテン語で雄牛を意味している。

 日本に種痘が導入されたのは江戸時代の中期で、金沢で天然痘が流行した際に、長崎からワクチンが運ばれたことが記録されている。天然痘は明治中期まで猛威を振るっていたが、明治維新の10年前に「お玉が池」に種痘所ができ、種痘所が徐々に広まっていった。明治42年に種痘が法律で定められ、種痘を受けていない者には罰金刑が課せられた。このように定期的な種痘が繰り返され天然痘は激減した。

 終戦後、外地からの引き揚げ者によって天然痘は一時的に流行し、昭和21年には3000人の死者が出たが、この流行はすぐに沈静化し、昭和30年以降、日本では天然痘の発症は認められていない。欧米や日本では天然痘は撲滅されたが、アジア、アフリカではまだ猛威を振るい、年間1300万人の患者が発生していた。この天然痘の根絶に力を注いだのが、当時厚生省職員だった蟻田功さんだった。

 昭和37年、蟻田さんはアフリカで子供たちが次々と天然痘の犠牲になっていることに衝撃を受け、WHOの天然痘根絶計画に参加するが、メンバーはたった1人だけで予算もなかった。だが蟻田さんの情熱により40人の男性が集結し、人類最強の敵に戦いを挑むことになる。蟻田さんは世界天然痘根絶対策本部長となり、天然痘根絶のプロジェクトが計画された。

 昭和42年、WHOは天然痘を10年以内に全世界から根絶するため天然痘根絶計画を作った。この根絶計画は天然痘の流行国である開発途上国にワクチンを集中的に投入することであった。患者を徹底的に探し、患者が見つかった周辺の住民に種痘を行った。各国の協力を得て50万人を動員し、総額1億ドルの予算で「天然痘封じ込め作戦」が展開していった。

 世界中のスタッフが、根絶を目的に一致団結し、向こうに村人がいる限り、スタッフは悪路でも前に突き進んだ。この作戦により南米、インドネシア、西アフリカと根絶地域が拡大していった。そして昭和52年10月、ソマリアで天然痘と診断された23歳のアリ・マオ・マランさんが、この地球上で最後の患者となった。このようにして、人類共通の敵である天然痘を撲滅することができ、蟻田さんは日本版ノーベル賞の日本国際賞を受賞している。

 天然痘の封じ込め作戦が成功したのは、天然痘ウイルスがほかのウイルスと異なった性質を持っていたからである。1つはヒトだけに感染し、ほかの動物には感染しないという特性であった。このことはヒトからヒトへの感染を防止すればウイルスは存在できないことを意味していた。また天然痘は感染を受けると必ず皮疹が出現するので、天然痘の感染予防には症状を持つ患者だけを相手にすればよかった。さらに感染から回復した患者にはウイルスが存在しないこと、天然痘ウイルスが突然変異を起こしにくいことも撲滅に有利であった。

 天然痘封じ込め作戦が成功を収め、撲滅宣言を出す直前に、思わぬ事件が起きた。昭和53年8月16日、英国のバーミンガム大医学部で天然痘が突然出現したのだった。同医学部の研究施設に勤務していた女性が天然痘に感染、風邪のような症状からわずか5日後に死亡した。彼女が勤務していたフロアの1階下の研究室で天然痘ウイルスを用いた実験が行われて、実験用の天然痘ウイルスが部屋から漏れて女性に感染したのだった。天然痘ウイルスを用いて実験していた研究者は責任を感じ、彼女の後を追うように自殺した。

 昭和54年10月26日、国際天然痘根絶委員会は天然痘の根絶を報告。55年5月8日、ジュネーブの国連ホールでWHOは高らかに「天然痘の根絶」を宣言した。人類の英知が、数限りない命を奪ってきた感染症を葬り去ったのである。

 現在、天然痘ウイルスは実験用として米疾病対策センターとロシア・ウイルス標本研究所の2カ所に液体窒素の中で厳重に保存されている。天然痘ウイルスの全遺伝子はすでに解明され、天然痘ウイルスを処分するか保存するかの議論がなされている。

 天然痘が再び流行した場合、ワクチン生産のために保存すべきとする考えと、生物兵器としてテロに利用される可能性から天然痘ウイルスを焼却すべきとする考えが対立している。天然痘は1人でも感染者が出れば爆発的に広がる。さらに保存しやすいこと、培養しやすいこと、空中散布だけで容易に感染することから、細菌兵器としては最も使いやすいウイルスだった。平成5年の大みそかに天然痘ウイルスは処分されるはずであった。しかし処分するかどうかの結論は保留のままとなっている。いずれにしても、かつて人類を悩ましてきた天然痘はすでに考古学の分野になった。