命がけの宝くじ

【命がけの宝くじ】昭和51年 (1976年)

 昭和51年12月21日、「1等1000万円40本、あなたも1千万円長者にチャレンジしてみませんか」をうたい文句に、年末ジャンボ宝くじが全国7300カ所の発売所から一斉に売り出された。師走の夢を追った大型宝くじに日本中が大フィーバ、前夜からの徹夜組も含め、予想をはるかに超える購入者が殺到し、各地で死者がでるほどの大混乱となった。

 東京の後楽園球場では70万枚を発売予定としていたが、深夜1時に1万人が集まり、球場をぎっしり埋め尽くした。第一勧銀は整理券を配ろうとしたが、それが混乱を引き起こした。寒さしのぎに飲んでいた酒の勢いも手伝い、怒声や罵声が飛び交い、売り場ボックスが壊され、400人の機動隊が規制に乗り出した。朝の5時には群衆は2万人にふくれあがり球場を取り巻いた。6時10分、6つの窓口で宝くじ売り出されると、群衆がわれ先に殺到し「順番を守れ」「何をするんだ」「馬鹿野郎」と罵声が飛び交い大混乱となった。

 大阪の扇町公園の特設売場には徹夜組だけで3万人が集まった。このため午前6時の発売予定時間を3時間繰り上げ、午前3時に発売したが、5人の負傷者がでた。福岡・平和台では3万人が集まり、午前4時ごろ中年男性が死亡、重傷者1人、軽傷者10数人をだした。氷点下3.5度の松本市では老人が寒い寒いと言いながら脳卒中で倒れ死亡した。松本市では3500人が集まり、50人の警察が警備に当たったが、混乱を鎮めることはできなかった。

 このように各販売所では列をなし、順番争いのこぜり合いが続出したため、大阪、福岡、徳島では宝くじの販売が途中で中止となった。警察庁の調べでは、全国で 2人が死亡、重軽傷者25人で、出動した警察官は1万640人に達した。

 昭和51年の企業倒産(負債1000万円以上)件数は1万5641件、負債総額は2兆265億円で、それまでの最高を記録していた。昭和51年は戦後最大の不況で、個人消費は停滞し、社会保険負担率や公共料金は引き上げられ、庶民は宝くじに夢を求めたのだった。宝くじは庶民のささやかな夢であったが、この日は一攫千金の夢が悪夢となった。