千葉大女医殺人事件

 昭和58年1月7日朝の5時50分ごろ、千葉市葛城の新興住宅地の路上で、若い女性がうつぶせに死んでいるのを新聞配達員が発見。遺体の近くにはハンドバッグが落ちており、財布や手帳が散乱し、財布から現金が盗まれていた。運転免許証から、被害者は千葉大医学部研究生の椎名敦子さん(25)であることが判明。敦子さんは、自宅から徒歩数分の路上で首を絞められ殺害されたのである。首筋にはコードで絞殺された索溝痕(さくこうこん)が残されていた。敦子さんは新婚3カ月の女医で、駆けつけた夫の椎名正(25)とともに千葉大医学部に勤務していた。
 女医殺人事件だけでも話題性は十分だったが、被害者が新婚の妻で、若い夫婦が敷地約500平方メートル、時価8600万円の豪邸に住んでいたことから、羨望(せんぼう)の混じった国民的興味を引いた。さらに、殺人事件としては多くの疑問があったことからテレビのワイドショーを独占した。
 椎名正の話によると、事件前日は一緒にドライブして午後10時半ごろ帰宅したが、深夜の3時ごろ敦子さんは「眠れないので、研究室に行く」と1人で病院へ行ったということだった。近所の人は、午前4時10分ごろ、怒鳴り合う声と女性の悲鳴を聞いていた。
 千葉県警中央署に捜査本部が設置され、100人の捜査員が動員された。警察は顔見知り、行きずりの犯行の両面から捜査を開始した。当初は敦子さんの財布から現金が盗まれていたことから、強盗殺人を想定していた。捜査員は新婚ほやほやの夫が現場で泣き叫ぶのを見て同情した。しかし敦子さんの遺体に衣服の乱れはなく、抵抗の跡がなかった。両まぶたが閉じられていて、強盗殺人にしては不自然だった。捜査官は顔見知りの犯行、特に夫の正を疑った。正の手のひらに赤い条痕がついているのを見逃さなかった。
 殺された敦子さんと夫の正は独協医科大学の同級生だった。新婚3カ月であったが、2人は大学1年生のときからの知り合いで、長い同棲生活を送っていた。新婚であったが、2人の愛情はすでに冷えていた。
 正(旧姓藤田正)の実家は秋田市内の名家であったが、実家が倒産したことから千葉県S市の同級生で一人娘である敦子さんの椎名家に養子に入ることになった。椎名家には男性の後継がいなかった。敦子さんは東京女子医大にも合格していたが、独協医大に進学したのは婿養子の候補者に出会えると考えたからだった。正は名字を藤田から椎名へと変え、S市の病院の跡取りとして将来を保障されていた。
 椎名夫妻は千葉大医学部の大学院を受験したが2人とも落第。正は整形外科の研修医、敦子さんは病理の研究生となった。正が千葉大に就職できたのは義父の力による。正は妻の実家から自宅を新築してもらった上、月々20万円の生活費を受けていた。事件の起きる3カ月前の昭和57年10月10日、千葉大の井出源四郎学長を媒酌人とした結婚式を帝国ホテルで挙げていた。結婚式には、安倍晋太郎通産相、独協医大理事長などが出席する豪華なものであった。
 千葉県警は捜査を進め、決定的な情報をつかんだ。正は敦子さんとの婚約後、2カ月もたたないうちに千葉市栄町のソープランド「ニュータレント」の21歳のホステスと深い仲になっていて、ホステスとは半同棲生活を送っていた。
 椎名夫妻は新婚旅行で沖縄に行くが、帰って間もなく、正は今度は京成千葉駅近くのパブ「マッケンジー」の19歳のフィリピン人ダンサーと付き合うようになる。新婚生活直後からパブに通い、ダンサーに熱を上げていた。正は枠組みだけの家庭をつくりながら、妻以外の女性を求めていた。このような事実が明らかになるにつれ、エリート医師の転落として世間の注目を集めた。
 ダンサーは4人組ダンサーチーム「カルセール」のリーダーで、昭和57年10月に千葉のパブに来たばかりだった。正は一目ぼれで毎日のように通い詰めた。彼は椎名家から結婚祝いにもらった200万円の時計をダンサーに与え、結婚の約束までしていた。
 しかし10月24日に「マッケンジー」との契約が終わり、ダンサーは愛媛県今治市のクラブに移ることになった。正は消費者金融から80万円を借りると、出張と偽って千葉から愛媛までダンサーを追って行った。そこで今治市のクラブの経営者に200万円で千葉に戻してくれるように頼んだ。正は消費者金融に借金を重ねながらダンサーに貢いでいた。正は同年12月20日以降、病院を無断欠勤していた。医師が無断欠勤すれば、すべておしまいである。
 新婚にもかかわらず、事件当時、椎名正と妻の敦子さんの関係は冷え切っていた。フィリピン人ダンサー、金銭問題、無断欠勤などトラブルが絶えなかった。そのため、正は敦子さんをガス爆発に見せかけて殺害しようとした。自宅のガスを漏出させ、台所の電気スイッチを入れると爆発するように工作したが、この計画は未遂に終わった。
 敦子さんは夫の無断欠勤を追及しているうちに、ダンサーとの関係を知り、夫が自分を殺そうとしたことを知った。敦子さんは夫をののしり、「実家の両親に何もかもぶちまける」と叫んで外出の準備を始めた。正は、妻が実家に帰って両親にこのことを話せばすべてが終わってしまう、医師としての将来がなくなると動転し、敦子さんに飛びかかり電気コードで絞殺した。
 正気に戻った正は、敦子さんを路上強盗に遭ったように偽装した。正は敦子さんの遺体を抱え、外に出て路上に放置、遺体の周囲にハンドバッグの中身をばらまき、財布から現金を抜き取って強盗に襲われたように見せかけた。さらに見開いた死体の両まぶたを閉じ、鼻から流れ出ていた血をふいた。それは夫が見せた最後の優しさだった。
 正は事件発生から9日後の1月16日、自宅で腕から500ccの血液を抜き、自殺未遂で千葉大付属病院に運ばれた。同月21日に敦子さんの葬儀がS市の妙福寺で行われたが、入院中の正は姿を見せなかった。敦子さんの葬儀の翌日に、正は退院したが、その日に殺人容疑で逮捕された。逮捕後の調べで、正はフィリピン人ダンサーとの交際を大筋で認めたが、妻の殺害については否定した。
 正の自供は二転三転した。正は「自分が第1発見者だったが、恐ろしくて警察に届けなかった」と供述。そして最後には、自分で組み立てたフィクションに落ち込み、何が真実なのか分からないと精神的混乱をきたした。「この事件を解き明かせないように複雑にしたのは私です」、このように意味不明な言葉を捜査官に並べ立てた。
 正は起訴されたが、第1回公判では起訴事実を全面的に否定。第5回公判から嘱託殺人を主張した。正の供述によると、前年の10月に妻が自宅近くで性的暴行を受け、脅迫状が届くようになった。そのため、自分がいない方が妻の気持ちが落ち着くだろうと、千葉市内を飲み歩くようになった。妻が死んだのは、事件のショックから、ベッドの上で自分の首にコードを巻き、殺してくれと依頼されたためで、嘱託殺人だったと述べた。妻が死んだのは自殺で、事故をよそおうため路上に運んだ、というものであった。殺人は認めたが、妻が自殺を望んでの嘱託殺人と強調した。
 この事件で最もかわいそうだったのは、敦子さんの父親であった。病院の後継者ができたと喜び、正が逮捕されても無実を信じていた。しかし正の女性関係が報道されると、希望は絶望に変わった。一方、ソープランドの愛人やダンサーは正の無実を信じ、正との結婚を希望する発言を繰り返して話題になった。
 この事件は世間が注目し、裁判の動向にも関心が集まった。傍聴席を求める長い列が千葉地裁を囲み、その中には正に同情的な若い女性が少なからず混じっていた。正は若く端正な顔立ちだった。もし「自分が正の妻だったら、正を被告にさせなかった」という気持ちを、多くの若い女性たちに抱かせていた。
 東京高裁の小野慶二裁判長は「乱脈を極めた女性関係を妻に責められ、妻を口封じのために殺害したのは明らかで、妻に依頼された嘱託殺人との被告の主張は信用できない」と述べ、懲役13年を言い渡した。
 事件から7年目にあたる平成2年3月13日、最高裁(中島敏次郎裁判長)で上告棄却が決まり、正は懲役13年の刑が確定した。しかしその直後の同月22日、正は東京拘置所の独房で自殺を図り、自らの人生に終止符を打った。畳の糸を抜き、糸を首に3重に巻き、糸の間にペンを入れ、ねじって自分の首を絞めたのだった。
 「僕は殺していません。ただ責任は僕にもあります。最後の約束を守ります」と書かれた遺書を残していた。この事件は被告人死亡のため刑は確定せず、椎名正の医師免許は剥奪されていない。正は事件後、都合4回自殺を図っていた。罪の重さを感じてのことであろうか。