丸山ワクチン

丸山ワクチン 昭和56年(1981年)

 丸山ワクチンは、日本医科大皮膚科の丸山千里(ちさと)教授が開発した抗がん剤である。長野県生まれの丸山教授は、旧制中学時代に肺結核で2度の闘病生活を送ったことから、結核の治療に情熱を持っていた。昭和19年から丸山教授は人型結核菌を何度も連続培養し、その抽出物から水溶性の多糖類を主成分とした丸山ワクチンを開発した。昭和21年に、皮膚結核に対してワクチン療法を開始し、皮膚結核やハンセン病に優れた効果が示された。丸山ワクチンはこのように、病院の皮膚科では皮膚結核の治療薬として使用されていた。

 丸山教授は以前から、「結核やハンセン病患者にがん患者が極端に少ない」ことに気づいていて、「結核菌のある成分ががんを死滅させる」と考えていた。そのため人の結核菌から抽出したワクチンに抗がん作用があると予想し、結核ワクチンでがん患者を治せないかと研究を重ねていた。

 皮膚科にはがん患者は少なかったため、昭和39年に内科と外科の医師の協力を得て、丸山ワクチンをがんの末期患者に投与してみた。その結果、余命わずかとされていた末期がん患者の中で、がんが消失する症例が出てきたのである。丸山ワクチンが投与された患者から、このような奇跡的な体験談がたくさん集められた。末期がん患者が自然に治癒する確率はほぼゼロであり、丸山ワクチンの効果は大きな反響を呼んだ。

 昭和41年5月、丸山教授は丸山ワクチンの効果を日本皮膚科学会雑誌に発表。まだデータが不十分だったことから丸山教授の報告は控え目だったが、マスコミが丸山ワクチン騒動を引き起こした。丸山ワクチンで親戚を助けてもらった小松製作所の河合良成元社長が協力した。丸山教授はマスコミを嫌ったが、河合氏は「現実に苦しんでいる人たちを1日も早く助けるのが務めではないか」と説得した。

 東京都港区のホテルオークラで記者会見が行われ、新宿区の社会保険病院外科の梅原誠一医師が23例の末期がん患者に丸山ワクチンを使用し、大部分の症例で自覚症状の改善が見られ、有効は13例と報告した。そのほか数人の医師が有効例に言及した。梅原医師が報告した23例の末期がん患者例は、昭和42年の日本外科学会総会でも発表された。

 この会見以後、丸山ワクチンを求める医師や患者が急増することになる。昭和49年10月、イタリアで開催されたフローレンス国際がん学会で、末期がんに丸山ワクチンが有効とする成績が発表され、1日300人以上の患者が東京・千駄木の日本医科大に列をなすようになった。

 丸山ワクチンはBCG(牛型結核菌)とは違い、人の結核菌から抽出したものである。抗がん剤は副作用の強いものばかりだったが、丸山ワクチンは結核菌の有毒成分を取り除いていたので副作用はなかった。がんの治療としては、外科療法、放射線療法、化学療法、免疫療法などがあるが、丸山ワクチンは免疫療法に相当した。

 がん細胞はもともと生体の一部の細胞から発生したもので、細胞が何らかの原因で染色体に変化を起こし、分裂を繰り返してがんになった。このがん細胞の一部は免疫によって排除されるが、生き残ったがん細胞が増殖した。がん細胞を異物と認識すれば、自己の免疫能が働いて排除される。免疫療法とは「体内のがんへの免疫力を強め、がん細胞の増殖を押さえて消滅させること」だった。身体のどの部位に発生したがんにも応用できた。

 丸山ワクチンを投与すると、がん細胞の周囲にリンパ球がたくさん現れ、がん細胞を取り囲んで委縮させた。また丸山ワクチンの投与によりインターフェロンが産生され、インターフェロンによって活性化されたマクロファージががん細胞の増殖を押さえる機序も確認された。

 丸山ワクチンによってがんが消えた、あるいは余命が延びた患者は数え切れないほどであった。しかし薬剤として厚生省の認可が下りず、ゼリア新薬工業が後ろ盾になって丸山ワクチンの製品化に乗り出した。もちろん丸山ワクチンはがんを100%治す魔法の薬ではなかったが、患者の多くは丸山ワクチンに最後の望みを託す末期がんの患者であった。

 丸山ワクチンは、厚生省の認可が出なかったため、その使用には煩雑な手続きが必要だった。患者とその家族は主治医に承諾書を書いてもらい、日本医科大で購入した丸山ワクチンを主治医の元へ持ち帰り注射してもらった。認可されない薬剤ゆえに苦労が多かったが、わらにもすがりたい患者は、日本全国だけでなく海外からも日本医科大へ集まってきた。

 その一方で、丸山ワクチンの効果を疑問視する医師もいた。昭和46年10月、癌研付属病院内科医の吉江尚は丸山ワクチンを投与した35例では改善例は見られなかったと医事新報に報告している。このように丸山ワクチンの効果をめぐる賛否両論がぶつかりあった。

 昭和51年7月、丸山教授はKKベストセラーズから「丸山ワクチン」という一般書を出版し、20万部を超えるベストセラーとなった。丸山ワクチンの名前は有名になったが、それと反比例するかのように、医師や学者たちの印象は悪くなった。医師が医学書や新聞に書く場合は高名な医師と受け取られるが、一般本を出版する場合は医師たちに白眼視されるのが常だった。

 丸山教授が「他の抗がん剤と併用すると治療効果が損なわれる」と説いたことも反発を招いた。丸山教授はワクチンが正常な細胞を刺激して、がん細胞への抗体をつくるというメカニズムを考えていたので、他の抗がん剤を使用した場合には、正常な細胞も壊れてしまうので併用療法には反対だった。

 丸山ワクチンはもともと丸山千里教授の手作りで、茶色の瓶に詰められていた。それを第一製薬がアンプルにして、ワクチンの配布を手伝っていた。第一製薬にしてみれば、丸山ワクチンが製品化されれば、膨大な収入が得られるとの目算があった。ところが丸山教授が製品化の決意を伝えると、予想に反して、第一製薬はその申し出を断ったのである。第一製薬は、がんセンター、癌研究会から「丸山ワクチン効果なし」の報告を受け、認可は困難としたのだった。そして、それまでのワクチンの配布も断ってきた。

 第一製薬が丸山ワクチンから手を引き、次にゼリア新薬工業が手伝うことになった。ゼリア新薬は製造だけでなく、基礎研究や臨床研究にも同時に取り掛かった。基礎研究では協力する学者が多かったが、臨床研究は進まなかった。丸山ワクチンと聞いただけで拒否反応を持つ医師が多かった。大病院の臨床医たちは、ほとんどが大学の系列に属し、勤務医たちは大学教授や学会評議員の無言の圧力を感じていた。丸山ワクチンの臨床研究は、すなわち教授に逆らい、がん研究の主流から外されることを意味していた。臨床医を説得するゼリア新薬は苦戦の連続であった。

 昭和51年11月、ゼリア新薬は丸山ワクチンの製造承認の申請を厚生省に提出、厚生省は丸山ワクチンを抗がん剤として認めるかどうかの審議を始めた。丸山ワクチンは、それまで10万人以上のがん患者に投与されていたが、学問的にその有効性は定まっていなかった。

 昭和56年、この丸山ワクチンの効果をめぐる長年の論争が頂点に達した。それは厚生省が4年越しの丸山ワクチンの効果判定に結論を出す年だったからである。丸山ワクチンを有効とするグループは活発に承認を働き掛け、国会議員も超党派で動いた。

 ところが昭和56年8月14日、厚生省の諮問機関である中央薬事審議会は「提出されたデータからは有効性を確認できず、現時点では承認することは適当でない」とする最終答申書を村山達雄厚相に提出した。この答申書は丸山ワクチンを無効としたのではなく、「丸山ワクチンの医薬品としての有効性を確認するためには、引き続き試験研究を行う必要がある」と結論を先送りしたのだった。厚生省は丸山ワクチンを薬品としては認めなかったが、全額自己負担ならば使用可能とした。そして製造元のゼリア新薬に、このまま製造を続けるようにと提案した。患者の強い要望による玉虫色の判断であった。

 丸山ワクチンは何万人もの患者に投与されていたが、国はその有効性、無効について結論を出さなかった。丸山ワクチンの認可は、薬剤としての有効性よりも、むしろ医学界における政治的駆け引きが大きかった。丸山ワクチンと同じ免疫抑制剤として、「ピシバニール」(中外製薬)と「クレスチン」(呉羽化学)がすでに承認されていて、ピシバニール、クレスチンの中央薬事審議会における承認過程の不透明が問題になっていた。

 ピシバニールとクレスチンが認可された後、薬事審議会は認可の基準を上げ、丸山ワクチンを除外しようとしたのだった。従来の基準ならば、丸山ワクチンは間違いなく認可されていた。クレスチンは申請から認可までわずか1年で、しかも審議はたったの3回だけだった。ピシバニールも認可まで2年であったが、丸山ワクチンは5年間に3回の追加資料の提出を求められ、比較臨床試験まで強要され、データに不備がないのに、審議だけが延々と引き延ばされた。そしてその結果が継続審議であった。

 これは当時、医学界の大御所であった元大阪大総長(平成2年死去)の関与が大きかったとされている。元大阪大総長は免疫学の第1人者で、丸山ワクチンが人型結核菌だったのに対し、元大阪大総長は牛型結核菌のワクチンでがんの免疫治療を研究していた。いわば、政治力の強い医学界のボスが丸山教授の競争相手だった。元大阪大総長は医学界における文部省の補助金分配に絶大な力を持ち、丸山ワクチンを擁護する学者には補助金を出さずに干していた。

 さらに丸山ワクチンを審議した中央薬事審議会・抗悪性腫瘍調査会の座長は、元大阪大総長の友人である元癌研癌化学療法センター所長だった。元癌研癌化学療法センター所長はクレスチンの開発に携わっていた。つまり自分が開発したクレスチンを、薬事審の委員として自分で審査していたのである。

 このことが国会で問題になり、丸山ワクチンを医薬品として承認しなかった審議会への不満が高まり、非公開の審議方法も問題になった。その結果、丸山ワクチン審議にかかわった102人全員が辞任することになった。元癌研癌化学療法センター所長は「クレスチンの発売後に、新基準に変えたのは、丸山ワクチンを認可させないためであった」と後に認めている。

 丸山ワクチンが認可されなかった理由の1つに、丸山ワクチンの製造元が中小メーカーのゼリア新薬だったことが挙げられる。ゼリア新薬の社長はまじめな性格で、厚生省に一切根回しをしなかった。そのため、政・官・産・学の癒着が丸山ワクチンの前に包囲網として立ちはだかった。

 丸山ワクチンは抗悪性腫瘍剤としては承認されなかったが、厚生省はがんの放射線治療に伴う白血球減少症の抑制薬「アンサー20」として認可した。「別件逮捕」ならぬ「別件承認」であった。アンサー20は丸山ワクチンを20倍に濃縮したもので、アンサー20を利用すれば患者やその家族が丸山ワクチンを入手するための面倒な手続きを省くことができた。一部の病院ではアンサー20を利用した丸山ワクチン治療が行われている。

 丸山ワクチンの人気は衰えず、丸山ワクチンの投与を受けた患者はすでに40万人を超え、年間6000人近い新規患者が投与を受けている。厚生省は丸山ワクチンの有効性の結論を出さないまま、患者に配慮し3年間の有償治療薬として、3年間の期限が切れるたびに使用延長を繰り返し、このようなことは薬事行政では異例中の異例であった。

 平成4年3月6日、丸山教授は丸山ワクチンの評価が定まらないまま90歳で死去。丸山ワクチンの有効性は依然として不明のままであるが、丸山ワクチンは有償治験薬として無期限の延長が決定され、現在もがん患者の治療に使われている。

 丸山ワクチンががんに効果があるのかどうか。多分、丸山教授が手作りでワクチンを作っていた最初のころは、抗がん剤としての有効だったのだろう。しかし生産量を増やしたため、あるいは時間の経過とともに結核菌が変化し、最初の有効性が低下したのではないだろうか。このように考えれば、理屈に合っているように思われる。