ボポシマ有毒ガス事故

【 ボポシマ有毒ガス事故】昭和59年 (1984年)

 インド中部にある古都ボパールは、インド最大の湖であるボパール湖を取り囲むように発展した人口70万人の城壁都市である。美しいモスクを持つこの街で、昭和59年12月2日の深夜、悪夢のような猛毒ガスが発生した。

 事故を起こしたのは、米国系企業ユニオン・カーバイド社の農薬工場であった。工場の地下にあった殺虫剤の原料イソシアン酸メチルの貯蔵タンクが、なんらかの原因で温度が上昇。38度の沸点に達し、63トンの猛毒イソシアン酸メチルが外に漏れ出したのである。

 有毒ガスは、北風に乗って寝静まった街を襲った。市内全域がガス室となり、多くの人たちは苦しみにのたうち回った。痙攣を起こし、口から泡状の血を吹き死んでいった。市民は、電話で「助けてください。こちらは地獄です」という悲痛な声をだすのがやっとだった。

 事故発生時、ユニオン・カーバイト社は毒ガスの成分を明らかにしなかった。そのため周辺から救援に来た数百人の医者たちは解毒剤を使用できず、10万人以上が負傷し、2600人以上が死亡した。ボパール市から20万人の市民が避難し、街には棺(ひつぎ)が並び、牛の死骸(しがい)が放置され、ボパール市は死の街となった。

 毒ガス漏出時、工場の職員はティー・ブレークで、異常に気付くのが遅れてしまった。工場は過去にも有毒ガス事故を起こしていて、これまで何度も整備不良が指摘されていた。しかし会社は、収益を重視し、老朽化した施設を放置したままだった。利益第一、安全無視の会社の体質が引き起こした事故で、安全対策に100項目を超える違反があった。この最悪の事故は、起こるべくして起きた。

 事前に工場の不備を把握していたジャーナリストのラフマール・ケスクは、州政府に何度も警告を出していた。しかし州の上層部はその警告を無視していた。州政府は企業を誘致するために、企業側に有利な条件をのんでいたからである。後に、ガンジー首相は「インド政府は今後、人口密集地で危険物質を生産することは認めない」と声明を出した。

 この事故で、多くの人々がさまざまな後遺症に悩まされている。世界最大のガス漏れ事故が起きたボパールは、事故の悲惨さ、長く続く後遺症などが、原爆を投下された広島や長崎に匹敵するという意味で、「ボポシマ」と呼ばれている。

 ユニオン・カーバイド社の責任は非常に重いが、死者の遺族に支払われた賠償額は 1人当たりわずか330ドルだった。当時のアンダーソン社長は事件後すぐに国外へ逃亡した。