サラ金地獄

サラ金地獄 昭和53年(1978年)

 第1次石油危機による不況、さらに1ドル360円の固定相場から1ドルが180円になり、構造不況と円高から輸出業を中心に中小企業の経営が行き詰まった。また銀行は大企業中心の融資で、個人向けの融資はほとんど行っていなかった。サラリーマンへの銀行融資は保証人が必要などの条件が厳しく、利用できる者はごく少数だった。高度経済成長の中で年々個人所得が増えたこともあり、借金を気にしない気楽な風潮がサラ金地獄の背景にあった。

 サラリーマン金融、いわゆる「サラ金」は昭和38年に大阪で始まった。給料明細書、健康保険証、運転免許書、印鑑証明を見せれば無担保、無保証で簡単に借りることができた。そして即融資と秘密性から借金地獄におちいる者が増えていった。サラリーマン金融は都道府県知事への届出だけで営業ができたため、その高収益が他業種からの参入をよび、短期間のうちにサラ金業は急成長した。

 昭和53年6月末のサラ金業は約2万6000社で、貸出残高は約8600億円となり、ピーク時の業者数は全国のソバ屋数と同じ4万社になった。暴力団も参入し、駅前にはサラ金の看板が乱立した。儲かる業界には業者が群がるのが常であるが、サラ金業者の急増はサラ金に苦しむ民衆の急増を意味していた。そして昭和53年、「サラ金地獄」という言葉が流行語となった。

 サラ金は気軽に借金ができるが、サラ金の金利上限は年利109。5%であった。つまり1年間で借金が倍になるシステムであった。さらに3割の業者が上限金利を超えて貸し付けていた。このため借金のための借金が増え、1カ所のサラ金だけでなく、多重の借金をかかえる者が多くなった。そして雪だるま式に借金が増え利用者の首を絞めた。心のスキマに悪魔が入り込み、気楽な気持ちで借金をして、サラ金苦からサラ金地獄へ転落していった。

 当時のサラ金は法的規制がなく無法地帯だった。そしてその裏には、人権を無視した過酷な取り立てがあった。業者の取り立てのすごさは常識を超えていた。昼夜を問わず会社や家の電話機を鳴らし、家の周囲に「金かえせ」の張り紙を貼り、怒号、恫喝、脅迫は当たり前だった。葬式に乗りこみ香典を持ち帰る、生活保護者の支給日に市役所前で利用者から生活保護費をむしり取る業者もいた。「サラ金苦」から逃れるために、自殺、家出、夜逃げ、一家離散が続出した。さらに借金を清算するため生命保険に入り、自殺する者が相次いだ。

 昭和54年の警察白書には、苛酷な取り立てを苦に半年で180人が自殺、2203人が家出、12人が売春を強要されたと書かれている。30代、40代の男性を中心に、主婦や学生までが「サラ金地獄」に陥った。サラ金から逃れるために引っ越しても、子供の転校先を調べて追いかけてきた。そのため住民票を移動できず、長期欠席する子どもが増加した。そのため当時の文部省は住民票なしでも子供を転校できるようにした。 

 借金取り立ての悲劇は全国的に広がっていった。高金利、過剰な貸し付け、苛酷な取り立てが「サラ金3悪」であった。業者にとっては無担保で金を貸しているので、貸し倒れを恐れて過酷な取り立てが横行した。このような状況に対し、昭和53年11月25日、弁護士や学者、被害者の会代表らが「全国サラ全問題対策協議会」を発足させ、サラ金規制の立法化のための活動を始めた。東京弁護士会はサラ金相談センターを設立したが、予約は2ヶ月先までいっぱいになり、ダフ屋が予約券を10万円で売るほどであった。そして予約日になっても、予約者の半数は来ることができなかった。予約日から相談日まで、業者の取りたてに耐えられなかったからである。相談に訪れる人の目は充血し、顔色は真っ青であった。借金のきっかけは生活苦からの気楽な借金で、ギャンブルが原因でも、ギャンブルに使ったのは最初の1回だけで、後は高い利息を払うために借金を重ねた者が多かった。また保証人になって借金地獄に転落する者もいた。

 昭和58年11月1目、「サラ金規制二法」(貸企業規制法・改正出資法)が施行されサラ金地獄にようやく歯止めがかかった。サラ金の営業は届け出制から登録制となり、上限金利は実施後3年間は年利73%、その後54.75%、40.04%へと順次切り下げられた。また暴力的な方法や夜9時から朝8時までの取り立てが禁じられた。

 銀行、保険会社などがサラ金業者の資金源となっていたが、この迂回融資が規制され、サラ金業者の資金繰りが苦しくなり、廃業、倒産に追い込まれる業者が出てきた。業界第1位の武富士は56年の決算が前年比90.4%増で、貸出残高は1282億円であったが、58年末の決算では貸し倒れが315億円となった。プロミス、アコム、レイクなど大手四社の貸し倒れ合計は778億円になった。この規制法によって中小サラ金業者の倒産が相次いだ。

 かつてのサラ金は消費者金融と名前を変え、悪者のイメージは過去のものと思われがちであるが、それはソフトなテレビコマーシャルのせいである。かつてのテレビ局はサラ金のCMを自主規制していたが、バブルがはじけ他産業の広告が減ると、サラ金のCM自主規制は解除され、テレビは消費者金融のCM花盛りとなった。チワワ、女子社員の微笑、ダンサーの踊り、このようにテレビがサラ金に乗っ取られたような錯覚をもつことがあった。

 サラ金の問題が根本的に解決されたわけではない。無人契約機の設置、インターネットでの契約など過剰融資が進み、多重債務者が増えている。さらにこの低金利時代でも年利26%と高金利体質が続いている。自己破産者は5万件を超え、強盗事件の犯行動機の6割がサラ金苦とされていた。サラ金利用者の滞納率は約2割とされ、返せないのに借りるほうも悪いのであるが、サラ金利用者は増えており、サラ金はその規模、社会的影響を考えれば、以前より問題は深刻化している。なお夫の借金に対して、妻はその借金請求に従う必要はない。また子供の借金を親が払う必要はない。借金の契約は夫や子供との約束であり、妻や親との契約ではないからである。