ウロキナーゼ事件

ウロキナーゼ事件 昭和59年(1984年) 

 昭和59年6月6日、毎日新聞は朝刊で「バイオ工学医薬品第1号 血栓溶解剤 本日発売」の見出しで、製薬会社がバイオテクノロジー(生命工学)を用いた日本初の医薬品を発売すると報じた。この薬品は血栓溶解剤ウロキナーゼで、心筋梗塞患者にウロキナーゼを投与すると、死亡率を半減させたと報告されるほど、有効性が高いとされていた。

 このウロキナーゼは尿由来の生理活性物質で、尿1トンに30mgしか含まれず、精製するには新鮮尿を必要とした。製薬会社はウロキナーゼの増産しようとしたが、新鮮尿が必要なため増産は望めなかった。下水設備の普及から尿の入手が難しく、一時は韓国、台湾、中国の学校や軍隊から尿を集めていたほどであった。

 ところが、米国のアボット・ラボラトリーが人間の腎臓の細胞を培養してウロキナーゼを生産する方法を開発、日本でもバイオ工学医薬品第1号となった。毎日新聞は、大日本製薬、ダイナポット、杏林製薬、三菱油化薬品の4社が腎臓の組織培養からウロキナーゼを商品化したことを、生命科学の輝かしい成果と報じた。

 しかしどこから人間の腎臓を集めたのかが問題になった。日本消費者連盟は「日米の製薬会社が東南アジアで死産胎児を買いあさっている」と指摘。また日本国内にも産婦人科医師と製薬会社を仲立ちする業者がいることが判明した。昭和57年2月25日、NHKは「ルポルタージュ日本・愛の重さ、高校生の妊娠」を放映し、産婦人科医院から火葬場に向かうトラックが、途中で段ボール箱を降ろし、何やら仕分けしている業者を映し出した。つまりウロキナーゼは、産院の手術室から闇へと葬り去られた胎児の腎臓が用いられていたのである。

 当時の法律では、胎児の扱いについて特別な規定はなかった。昭和25年2月2日の厚生省医務局長の通達では、「手術などで分離された生体の一部、あるいは流産した4カ月未満の胎児の処置については、社会通念に反しないように処置する」とされていただけである。日本は中絶天国で、胎児の横流しは常識とされていた。

 法的問題はないにしても、胎児の腎臓を用いることが社会通念、社会倫理に沿った利用とは言えなかった。まして毎日新聞が取り上げたように、バイオ工学と誇れるものとは言い難かった。国の規制がなかったため、東京都では処理する業者を届出制として各診療所から出される胎児や胎盤の数の報告を義務付けていた。その後、人間の腎臓を培養して作られたウロキナーゼは、ウイルス感染の可能性が高いことが指摘され中止となった。

 ウロキナーゼは第1世代の血栓溶解薬としてよく用いられた。ウロキナーゼは理論的には血管を閉塞している血栓を溶かし、脳梗塞を改善させると期待されたが、実際には宣伝ほどの有効性がないことが分かった。さらに脳の出血性病変を招く危険性も報告された。

 平成15年、厚生労働省研究班は脳梗塞の治療について、血栓溶解剤ウロキナーゼは「治療を勧めるだけの根拠がない」とした。つまり効果がないとしたのである。ウロキナーゼは現在、欧米では使われていない。厚労省研究班は承認しているウロキナーゼの効果を疑問視しながら、未承認のプラスミノゲンアクチベーター(tPA)を高く評価するねじれた報告を出した。

 脳梗塞の治療は発病直後の治療が生死を分ける。欧米では発病3時間以内に血栓溶解剤のtPAを点滴投与する方法が効果を挙げている。日本ではtPAは心筋梗塞については承認されているが、脳梗塞については未承認だった。しかし平成17年10月になって脳梗塞についても条件付きで使用が認められるようになった。脳卒中の約7割を占める脳梗塞は、推定患者数が120万人に上り、年間約8万人が死亡している。tPAの効果に大きな期待がもたれている。

 ところで納豆にはウロキナーゼに似た作用を持つナットウキナーゼが多く含まれている。ナットウキナーゼは、倉敷芸術科学大学の須見洋行博士が米シカゴ大医学部の血液研究所で偶然発見したものである。須見博士はシャーレ中の血栓に納豆を入れて放置すると、納豆の周囲の血栓が徐々に溶解し、18時間後には完全に溶解する現象を発見した。

 このことがNHKで放映され、ナットウキナーゼが一般にも知られるようになった。そして、日本人が長生きなのは納豆を食べているからと理屈をのべた。納豆は煮豆に納豆菌を加え発酵させて作るが、納豆菌が作り出す酵素がナットウキナーゼである。このナットウキナーゼは臨床で使われる血栓薬よりも強力な血栓溶解作用があるとされている。しかし重要なことは、納豆を食べてもナットウキナーゼは体内に吸収されないのである。つまりナットウキナーゼの血栓溶解作用が本当でも、納豆を食べて血液がサラサラになるのは間違いなのである。

 納豆は血栓予防に良いと誤解されているが、その一方では、血栓治療薬ワーファリンの作用を阻害するため、ワーファリン患者は納豆を食べてはいけないと病院で指導をうける。そのため「納豆は心臓に良いとか、いや悪い」といった誤解を生んでいる。またお酒は体内でのウロキナーゼの合成を促進させる効果がある。お酒の量が多いと減少するので、適量飲酒がより健康的とされている。