焼き魚

焼き魚 昭和51年(1976年)

 昭和51年10月4日、読売新聞は朝刊の1面トップで「魚の焼け焦げが発がんの疑い」の記事を掲載した。国立がんセンターの杉村隆所長ら生化学グループが、魚の焼け焦げが突然変異を誘導し、がんを引き起こすことを日本癌学会総会で発表すると報じたのである。

 杉村隆所長らが行った実験を正確に書けば、「アジ、イワシなどの魚をじか火で焼き、表面の焦げた部分を集めて細菌に与えたところ、突然変異を起こした細菌の頻度が高かった」ということである。このことから魚の焼け焦げががんを引き起こすと推測したのである。

 多くの読者はこの読売新聞の記事に注目した。それまで、たばこや食品添加物などの化学物質ががんの原因と思っていた人たちは、人工的な物質だけでなく、魚の焦げなどの日常的な自然産物までががんを誘発することを知り、ショックを受けた。がんが日本人の4人に1人の死因となり、読者の多くはがんの予防を模索していたので、その衝撃は大きかった。また焼き魚を多く食べる日本人に胃がんの死亡が多いことも説明できる現象であった。

 魚が焼け焦げるとタンパク質を構成するアミノ酸が変質し、がん誘発物質がつくられ、これが発がんの原因とされた。癌研究会癌研究所の高山昭三部長は変質誘発物質をハムスターに注射して発がんを確認し、国立がんセンターは経口投与で肝臓がんの発生をみたと発表した。

 これらの実験は間違いではないが、多くの人たちに大きな誤解を与えた。このマウスの実験をそのまま人間に当てはめると、体重60キロの人が毎日100トンの真っ黒に焼いた魚を食べ続ける量に相当した。イワシに換算すると、毎日92万匹を食べなければならない。このことが新聞には記載されていなかったので、大きな誤解と不安を招いた。

 動物実験を人間のがんの原因として公表するのは、あまりに飛躍が大きすぎた。がんを予防したいと思う多くの読者は、読売新聞のこの記事に飛びつき、焼け焦げパニックを引き起こした。家庭では焼き魚が敬遠され、調理法が煮魚やムニエルに変わった。人々は焼き魚の焦げた部分を神経質に取り除いて食べるようになった。この記事が新聞の第1面を飾ったのは、その意外性、話題性を狙ったのだろうが、社会的影響としては、むしろ日本の食文化を破壊する誤報と呼ぶにふさわしい。

 この記事には、親切にも尾ひれがついた。焼き魚と大根おろしを一緒に食べると、大根おろしのアミラーゼが発がん物質を抑制すると発表したのである。そして「魚に大根おろしを添える日本の習慣が、焼き魚の発がんを抑えるための日本古来(こらい)からの知恵」と報道したのである。

 焦げががんを誘発するのは、焦げに含まれる発がん物質を濃縮して大量に動物に与えた場合であって、焦げそのものががんを引き起こすことは実証されていない。昭和56年、国立衛生試験所は焦げの含有率20%、10%、0%の餌をハムスターに2年間にわたり与える実験を行い、結果は3群ともがんは発生しなかった。つまり現実的な焦げの量ではがんは誘発されないのである。現在では、焦げの発がん性は否定的ととらえられている。また昭和58年、国会で焦げと発がん性の問題について見解を求められた政府は、「焦げの発がん性について疫学的証拠がないことから、行政的には焦げの発がん性を取り上げない」と回答している。

 食事によってがんが予防できるかどうかは分からないが、平成8年、米ハーバード大のがん予防センターは米国人のがんの原因として、喫煙、食事、運動、飲酒ががん発症の68%を占めると発表した。もちろん明確な根拠があるわけではないが、権威あるがん予防センターの公式発表なので異議を唱える者はいなかった。

 予防可能ながんについて、食道がんは飲酒、喫煙、熱い飲食物。胃がんは塩分の高い食品、大腸がんは飲酒、肺がんは喫煙、乳がんは女性ホルモンと関係があり、習慣を変えることによって予防可能としている。

 焦げ騒動の杉村所長は後に同センター総長となり、「がん予防の12カ条」を発表している。この12カ条によってがんが予防できるかどうかは別にして、少なくとも健康にはよさそうなので、以下に紹介しておく。

 <1>バランスの取れた食事を取る

 <2>がんになる危険を分散させるため同じ食品を繰り返し食べない

 <3>食べすぎを避け、「腹8分目」とする

 <4>酒はほどほどに。アルコールの1日の適量は日本酒なら1合

 <5>たばこを吸わない

 <6>ビタミンと繊維質を含んだ緑黄色野菜をよく取る

 <7>塩辛いものを大量に食べない

 <8>熱すぎるものや焦げた部分は食べない

 <9>カビの生えたものは食べない

 <10>過度に日光に当たらない

 <11>過労を避けストレスをためない

 <12>体を清潔にする

 以上が「がん予防の12カ条」で、12カ条を実行すれば、がんの60%は防げるとしている。要するに、節度ある生活が1番よいというのである。

 ところで、昭和37年に国立がんセンターが発足して以来、杉村隆所長を含む歴代総長7人のうち、5人ががんになっている。がん予防を唱える学者でさえ、がんに冒されるのである。いかにがん征服が難しいかが分かる。

 大体、科学者がこのような発表を行うのは、世間の注目を浴びたいという名誉欲と研究費稼ぎと考えてよい。この魚の焦げ研究だけで、国立がんセンターには研究費として、16億円の国民の血税が投じられていた。

 日本の発がん研究は伝統的に優れた分野である。大正時代にウサギの耳にコールタールを塗って世界で初めて人工的にがんを作った山極勝三郎博士、戦後間もない時期にラットの腹水に吉田肉腫を作った吉田富三博士などの業績がある。焼き魚の報告はこの流れを引き継ぎ、環境中の発がん物質を避けるための予防策を説いたのだろうが、むしろ誤解を招くだけの迷惑な発表であった。杉村は文化勲章を受章したが、魚の焼け焦げ騒動は日本人に精神的パニックをもたらし、日本の焼き魚文化を衰退させ、日本の食生活を変化させた。文化を破壊した者が文化勲章である。皮肉なことであるが、皮肉以上に罪深い研究だったといえる。