荻野久作博士死去

荻野久作博士死去 昭和50年(1975年)

 日本の医学を飾る偉人として、小学生でも野口英世、北里柴三郎などの名前を挙げることができる。ところが視点を海外に向け「日本人医師の中で、世界で最も知られている医師は誰か」と言えば、それは新潟県で生涯を送った一介の勤務医・荻野久作博士がダントツの1位になる。その荻野久作が、昭和50年1月1日、新潟市で死去した。享年92。地元紙は「佐藤栄作首相よりもノーベル賞にふさわしかった人」とその業績を称賛した。

 荻野久作は、新潟市にある竹山病院の勤務医として生涯に20万人の患者を診察している。新潟市の人口は40万人なので、新潟市の半数に相当する患者を診察したことになる。荻野は月経と排卵の関係を応用した「オギノ式避妊法」で世界的に有名になったが、世界の荻野である前に、新潟市民の健康を守った臨床医荻野であった。

 荻野久作は明治15年3月25日、愛知県八名郡下条村の農家・中村彦作の二男として誕生した。明治33年に同県の荻野家の養子となって上京。旧制一高を経て、明治42年に東京帝国大医科大学を卒業した。養母の妹である高橋瑞が、日本で3番目の女医だったこともあって、荻野久作は産婦人科学教室に入局し、木下正中教授について研究生活に入ることになる。

 明治45年、たまたま新潟市の竹山病院から求人が舞い込んだことから、荻野久作は婦人科医長として竹山病院に赴任することになる。以後竹山病院の勤務医として過ごすことになるが、大正4年に同県長岡市の大塚益郎の三女とめと結婚。久作34歳、とめ29歳の晩婚であった。

 その当時は、妊娠の仕組みについてはまだ解明されておらず、産婦人科医である荻野は一貫して月経と排卵との関係を研究テーマにしていた。

 妊娠の仕組みは「女性の卵子が卵巣から飛び出して卵管に入り、そこに精子がきて受精すること」であることは分かっていた。だがこの女性の排卵が、いつ起きるかは、17世紀に卵巣で卵子が発見されて以来謎のままであった。荻野久作は診療に追われる日々を送りながら、新潟医科大病理学教室・川村麟也教授のもとで卵巣の脂質について研究をはじめた。

 当時、排卵日と月経の関係については多くの学説が混在していた。「月経は発情期のようなもので、排卵と月経は同時に起こる」、「ウサギと同様に、性交の刺激によって排卵する」、「排卵は月経初日の14日から16日目に起こる」、「月経と排卵日に関係はない」、このような学説があったが、証明はされてはいなかった。それまでの学説の主流は、最終月経から次の排卵日を求めるものであった。

 しかし荻野久作は、この学説とは逆の発想を持っていた。荻野久作は患者の聞き取り調査から、「排卵は次の月経がくる16日から12日前の5日間に起きる」と新説を唱えたのである。多くの学者が月経から何日目に排卵するかを争っているときに、排卵日を次回月経から逆にさかのぼった点が天才的発想であった。荻野は65例の開腹手術で子宮内膜、黄体、月経の関連を調べ、月経が排卵によって生じることを証明したのだった。

 大正13年、荻野久作は「人類黄体の研究」により東京帝国大の医学博士号を取得。同年「排卵の時期、黄体と子宮粘膜の周期的変化との関係、子宮粘膜の周期的変化の周期及び受胎日に就て」の演題名で、日本産婦人科学会誌に論文を発表。この論文は産婦人科学会の懸賞当選論文となり英訳もなされた。

 昭和2年、「主婦の友」12月号に「誰にでもわかる、妊娠する日と妊娠せぬ日の判別法」の記事が載った。この記事は医師・赤谷幸蔵が書いたもので、荻野学説に基づいた妊娠暦の紹介だった。まだこの頃は受胎調節法であるオギノ式は一般的ではなく、オギノ式という言葉は浸透してはいなかった。

 オギノ式という言葉が一般化するのは、荻野久作が欧米へ1年間留学し、ベルリンでドイツ婦人科中央雑誌に論文を発表してからである。当初、月経から排卵日を予測する学者たちから批判を受けたが、荻野学説は世界的に大きな反響を生んだ。帰国後、論文がオランダの雑誌に転載され、そこには「周期的禁欲法として応用できる」という宣伝文句がついていた。このことが脚光に加速度をつけ、いつの間にか避妊法として独り歩きをしたのだった。この避妊法は、避妊を禁ずるカトリック信者の間であっという間に浸透した。

 荻野が発見した月経と排卵の関係は世界的な大発見であった。オギノ式避妊法が世界的に有名になったが、「オギノ式は受胎法であって避妊法でない」とするのが荻野の持論であった。荻野は避妊法を研究したわけではなかったが、オギノ式避妊法は世界的に普及していった。

 キリスト教は、それまでの避妊法をいずれも認めていなかった。受胎を目的としない性行為を罪としていた。膣外射精でさえも罪としていたが、時代の流れの中で、避妊を認めるべきとの議論が盛り上がってきた。

 1968年、避妊を認めるかどうか、カトリックの歴史の中で重大な会議が招集された。避妊容認のカギを握る諮問委員会が、世界中の神学者や医師が参加して開かれた。やがて諮問委員会の意見は避妊容認に傾き、カトリックの歴史の中でピルやコンドームを認めるかどうかの最後の決断が、ローマ法王パウロ6世に求められた。

 世界が法王の決断に注目する中、パウロ6世は苦悩していた。そして法王は「直接受胎を妨げる避妊法は常に許されない」と発言、ピルやコンドームなどの使用を禁止し、そして唯一認めたのがオギノ式避妊法だった。そのためオギノ式はバチカン公認の避妊法として世界中の脚光を浴びることになった。

 荻野久作が発見したのは、月経と排卵の関係で、それを応用したオギノ式避妊法は荻野にとって関心のないことだった。子どもが欲しい人にとっての受胎法であって、避妊を目的とするものではなかった。オギノ式避妊法は「月経から次の排卵日を想定して禁欲する方法」であるが、避妊法としては失敗例が多かった。月経を基準に不妊期をはじき出すため、周期が狂えば失敗につながるからである。月経周期が安定している女性は意外に少なく、荻野自身「オギノ式に従う限り1日といえども安全な日はない」と警告している。

 しかしオギノ式避妊法は世界中に広まり、特に世界中の厳格なカトリック信者たちにとっては、今でも「法王が認める避妊法」としてオギノ式だけが用いられている。

 現在、排卵期と月経との関連性についての荻野学説は定説化している。彼の学説は欧米の教科書にも記載され、それを応用したオギノ式避妊法は世界的に広く知られている。今では欧米ではピル、日本ではコンドームに取って代わられているが、日本では現在でも避妊法の2位を守っている。

 世界的に名前を知られた荻野久作だが、大学からの教授の誘いを断り、80歳を過ぎても手術に当たり、90歳近くまで診察を続けた。荻野の家が面していた道路は「オギノ通り」と名付けられ、荻野は「オギノ通り」を通って病院まで往復する毎日であった。新潟の地元の人々にとって荻野は偉大な臨床医であった。