腎症候性出血熱事件

腎症候性出血熱事件 昭和50年(1975年)

 昭和50年の3月から5月にかけ、東北大医学部の医師3人が原因不明の高熱、けん怠感、下痢を訴え入院した。症状はインフルエンザと似ていたが、3人のうちの1人は出血傾向が強く重症になった。3人は腎障害、血小板減少、非定型リンパ球、肝機能障害を示していた。

 この事件から2年後の昭和52年、同じ東北大医学部で11人の医師と動物飼育係が同じ症状を引き起こした。医学部で発生した病気である。あらゆる感染症を想定して検査が行われた。11人は動物実験室のラットの部屋に出入りしていたことから、ラットを介して感染する腎症候性出血熱が疑われたが、腎症候性出血熱は日本での発症例がなかった。

 そのため腎症候性出血熱の検査が出来ないため、韓国の李博士の元に患者の検体を送り、その結果、腎症候性出血熱であることが確認された。動物実験用のラットから感染したのは初めてのことであった。実験室内のラットの血清も調べられ、高力価のハンタウイルスの抗体が確認された。

 腎症候性出血熱は、10世紀の中国の文献にも記載されている満州の風土病で、かつて満州に移住した日本人の生命を奪っていた。昭和初期、満州アムール川流域に滞在していた日本軍兵士の間でこの腎症候性出血熱が大流行し、日本軍兵士100万人の1%に当たる1万人が罹患し、その30%が病死したとされている。陸軍軍医団により「流行性出血熱」と命名され、このウイルスの威力を知った日本の731部隊(石井部隊)が流行性出血熱の研究を行い、細菌兵器の人体実験を行っていた。

 この疾患は、朝鮮戦争時に北朝鮮兵士の間で流行し、次ぎに国連軍兵士約 3000 人が発症し、死亡率は3.3%であった。当時は「韓国型出血熱」と名づけられていたが、日本軍を悩ました流行性出血熱と同じ疾患であった。北朝鮮は、「731部隊が分離したウイルスを米軍が使用した」と主張し、「米帝国主義の犯罪的細菌兵器」と非難した。朝鮮戦争が終わっても、韓国の農村部で韓国型出血熱は流行して9000人が発症し、1000人近くが死亡している。

 昭和51年、李博士がアカネズミの肺組織から、ウイルスを初めて分離してハンタウイルスと命名した。ハンタとはアカネズミが捕獲された38度線近くを流れる漢灘江(Hantaan river)の名前であった。ハンタウイルスの発見により流行性出血熱、韓国型出血熱、腎症候性出血熱は同じ疾患であることが判明した。

 日本では昭和35年、大阪・梅田駅周辺の繁華街でドブネズミを感染源とする流行があって、119人が罹患し2人が死亡している。当時、この病気は全く分からなかったが、保存していた血液からハンタウイルスによるものだったことが判明している。それまで「梅田熱」「梅田の奇病」「ビルの谷間の風土病」と呼ばれていたが、それらは梅田の闇市のドブネズミが持っていたハンタウイルスによる腎症候性出血熱であった。

 東北大学医学部の実験室で発生した腎症候性出血熱は、実験用ラットがハンタウイルスに感染し、ラットの便や尿に混じったウイルスが、ほこりとともに空気中に飛散し、そのウイルスを吸い込んで感染した。腎症候性出血熱は人から人への感染はないとされ、感染はラットによるものであった。

 腎症候性出血熱の発生は東北大医学部だけではなかった。昭和59年12月、東京・大手町の経団連ホールで開かれた「動物実験シンポジウム」で、山之内孝尚・大阪大教授は、日本各地の研究施設で腎症候性出血熱が頻発していることを発表した。日本では、昭和44年から医科系大学の動物実験施設22カ所で計126人が感染し、札幌医科大の動物飼育員1人が死亡していた。

 腎症候性出血熱の治療は、ウイルス性疾患であるため特効薬はなく、対症療法だけである。軽症例は自然治癒するが、重症例ではDIC(播種性血管内凝固症候群)やショックをきたし致死率は5%とされている。不活化ワクチンは中国と韓国で市販されているが、日本にはない。

 平成14年5月、北海道市立根室病院でハンタウイルス感染を疑う急性腎不全患者3人が見つかったが、検査の結果、感染は間違いだった。北海道の野ネズミであるエゾヤチネズミの1割が、ハンタウイルス抗体陽性であったことから報道が先走ってしまったらしい。

 平成12年から2年間、腎不全とハンタウイルスとの関連を調べるために、近畿、中国地方の8病院で人工透析を受けている患者532人を検査したところ、男性4人、女性4人の計8人からハンタウイルスの抗体が検出された。この8人の居住地を調べたところ、1人を除く7人の生活圏で同ウイルスを持つドブネズミを確認した。このことは慢性腎不全の患者の中には、ハンタウイルスが原因だった患者が含まれていることを示している。

 ハンタウイルスは飛散したネズミの排泄物を吸い込み、あるいはネズミにかまれて感染する。発症すると発熱や頭痛が生じ、悪化すると「腎症候性出血熱」となる。日本では、昭和59年以降、腎症候性出血熱の発症はないが、中国では現在でも年間約10万人、韓国では数百人、欧州全域で数千人程度の患者発生がある。ハンタウイルスによる感染症は、腎症候性出血熱のほかに、「スカンジナビア型」と「ハンタウイルス肺症候群」の2種類のタイプがあって、いずれも齧歯(げっし)類の便尿に潜むハンタウイルスが引き起こす。スカンジナビア型は軽症で、それまで流行性腎症と呼ばれていたものである。

 ハンタウイルス肺症候群は、日本での発症例はないが、米国では平成5年以降162人が感染して76人が死亡。カナダでは平成6からの5年間で32例が発症し死亡は12例(38%)である。平成9年9月にはアルゼンチンで20人が感染して11人が死亡している。このようにハンタウイルス肺症候群は恐ろしい疾患であるが、南北の米大陸に限局し、日本ではみられていない。