未熟児網膜症

未熟児網膜症(昭和47年)
 日本の未熟児網膜症の訴訟件数はこれまで100件以上存在している.このように未熟児網膜症に関する裁判が多かったのは,未熟児を保育器に入れて酸素を投与するという新生児医療の進歩が,それまで未経験だった未熟児網膜症をつくったからである.未熟児網膜症の治療は光凝固療法であるが,この光凝固療法がいつから一般的治療法として確立したかどうかが裁判の争点となった.つまり光凝固を用いて未熟児網膜症の進行を未然に防止しえたかどうか,この医療水準の確立時期が常に裁判で争われることになった.判決の勝敗が微妙だったのは,医療水準は全国一律ではなく,病院の専門性,医療の地域格差などがあったからである.未熟児網膜症は医学界や法曹界ばかりでなく世の中に大きな波紋を生んだ.
 まず未熟児網膜症の病態について説明する.眼の奥にはカメラのフイルムに相当する網膜という部分がある.この網膜に栄養や酸素を運ぶ網膜血管は妊娠9ヶ月に完成する.そのため9ヶ月以前に生まれた未熟児の網膜血管は未完成のままとなる.網膜血管の成熟度は胎児の成熟度と相関するため,出生児体重1500グラム以下,あるいは32週未満の出生では未熟児網膜症の発症頻度は高く,酸素の投与を行わなくても空気中の20%の酸素が未熟児網膜症を引き起こす可能性すらあるとされている.
 未熟児網膜症の医学的機序は,まず未熟な網膜血管が高濃度酸素環境におかれると強く収縮することから始まる.網膜血管の収縮によって減少した酸素を補うため脆弱な新生血管が出現する.この新生血管は破れやすく,破れた血管が修復する際に瘢痕収縮して網膜を剥離する.このことが未熟児網膜症の発症メカニズムとされている.昭和30年以後,新生児救命のための高濃度酸素が投与されるようになり,未熟児網膜症が多くみられるようになった.1942年,アメリカのテリーがこの未熟児網膜症を世界で初めて報告し,その後1950年にアメリカのヒースがこの疾患を未熟児網膜症と名づけた.
 未熟児に対する保育方法が進歩し,保育器内で酸素を大量に用いられ,この未熟児の救命処置が新たな未熟児網膜症という合併症を生んだのである.そのため酸素濃度を40%以下に制限することになり患者数は減ることになる.しかし逆に酸素量を制限しすぎたため,脳性小児麻痺や肺機能障害で死亡する未熟児が多く出るようになった.このように救命のための酸素投与量の適量が問題になった.未熟児網膜症はよく知られた疾患であるが,未熟児網膜症は現在でも完全になくなっているわけではない.未熟児で生まれる子供が増えているため,網膜症による失明児や弱視児を絶滅できないでいる。また未熟児網膜症は酸素の使用とは無関係に発症することもある.
 未熟児網膜症の治療として有効な薬物療法はないとされていた.しかし昭和42年,日本臨床眼科学会で天理よろず相談所病院の眼科部長・永田誠が光凝固療法によって未熟児網膜症の進行を停止することができることを発表した.この光凝固療法は西ドイツで開発されたものであるが,永田誠は画期的な成功例を示し,翌年の学会誌・臨床眼科に掲載され治療の可能性が注目された.昭和44年には4例の成功例が発表され,光凝固療による成功例がしだいに増え,昭和47年には100例以上の症例に光凝固療法がおこなわれるようになった.
 光凝固療法とは患部にレーザー光線を当て,網膜のタンパク質を凝固させ,網膜症の進展を止める方法である.昭和49年には厚生省の研究班が結成され,翌50年には光凝固療法による治療の適応性や方法についてのガイドラインが発表された.この報告書によると,未熟児には定期的に眼底検査をおこない,網膜症を早期に発見し光凝固をおこなうべきと書かれている.また誤解されやすい点であるが,光凝固療法は網膜症の進行を止める治療であり,凝固療法によって網膜がもとに戻るわけではない.
 この未熟児網膜症裁判で常に問題になったのは,医療過誤として医療側の責任がどの程度あるかであった.裁判では訴えられた医療側が,その当時の医療水準に照らし合わせ,診察や治療に関する注意義務をはたしていたかどうかが常に争点となった。裁判所が病院の医療行為について当時の医療水準を満たしていないと判断すれば,病院は注意義務違反による過失を問われることになる。そして医療側に責任があるとされれば賠償責任が生じることになる。未熟児網膜症の治療として昭和49年ころから光凝固療法が普及したが,昭和49年当時は,未熟児網膜症を的確に診断できる医師は少なく,光凝固療法の効果を疑問視する見解もあった.さらに長期的効果についての経過観察のデータに欠けていた.
 凝固療法が昭和何年の時点で当時の医療水準とされていたかが裁判所で争われることになった.原告側は「病院がきちんと眼底検査をしていれば光凝固法の治療を早く受けさせることができた」と訴えた.そして病院側は「光凝固法の有効性は当時はまだ確立されていなかった」と主張するのが裁判の争点になった.そして患者の誕生日が昭和50年8月を境にして,患者の請求が容認できるかどうかが分かれることになった.もちろん医療機関に適応される医療水準は,医師や医療機関の地域性や専門性に左右されるためその判断基準は全国一律ではないが,大体において昭和50年8月を境に医師側の注意義務が問われるようになった.
 患者,家族,医師にとって未熟児網膜症や医事紛争は不幸なできごととであるが,その予防は未熟児出生の防止である.このことが根本的対策であることを忘れてはいけない.