当たり屋稼業

【当たり屋稼業】昭和41年(1966年)

 昭和34年に日産ブルーバードが発売され、そのころからマイカー時代が始まった。自動車の数が増えるに従い交通事故が増加し、そこに目をつけた新たな犯罪が生まれた。それはわざと道に飛び出し、自動車にぶつかって大げさに痛がるふりをして、運転手から慰謝料や治療費をだまし取ることであった。「当たり屋」という言葉が、昭和37年の流行語になり、日活映画「当たり屋大将」も上演された。

 昭和41年8月31日、鳥取、群馬両県警は当たり屋一家4人の父親(44)と妻(27)を詐欺容疑で指名手配。9月1日には、北海道警、山梨、栃木の両県警からも指名手配となり、警視庁は「準広域重要事件」として凶悪犯並みの扱いとした。この事件が悪質だったのは、両親が自分の子供を当たり屋にしていたことで、各新聞社は連日のように報道した。

 しかし9月3日、両親は大阪市西成区のアパートで逮捕された。逮捕されたのは大阪府警の巡査部長だった大家が、手配中の当たり屋一家と気づいたからだった。刑事3人が張り込み、格闘の末に逮捕となった。父親は戦時中に銃創を負い、左手が不自由だったため職はなく、傷痍軍人手当金年額17万円の生活であった。

 この一家は、昭和41年4月から8月の間に、北海道から九州まで場所を変え、26件の当たり屋を行い、約60万円を得ていた。長男(10)の身体には自動車に何度もぶつかった傷があったが、警察の取り調べに、「自動車にぶつかったことはない」と長男は泣き出した。わが子を犠牲にする親のゆがんだ意識、親を助けようとするけなげに子供の気持ち、この2つが際だったコントラストを見せ、取調官は複雑な気持ちだった。当たり屋を始めた動機は、子供が実際に事故に遭って示談金3万円を得たことだった。

 この事件は当たり役が子供だったことから大きな話題となった。その手口は、徐行中の自動車に子供を当たらせ、母親が大声で「はねられた」と叫び、慌てて自動車から飛び出してきた運転手に、父親は「仕事中で先を急ぐ」、「子供の修学旅行についてきた」と適当な理由を並べ、動転している運転手に巧みな話術で警察ざたを避け、示談に持ちこんでいた。大島渚監督がこの事件を「少年」のタイトルで映画化し、ベネチア映画祭で絶賛を浴びた。