サイゴン陥落

サイゴン陥落 昭和50年(1975年)

 ベトナム戦争はその動員兵力、死傷者数、航空機の損失、使用弾薬量、戦費において第1次世界大戦を上回り、使用弾薬量、投下爆弾量では第2次世界大戦を超えていた。また米軍による大量の枯れ葉剤散布で多くの奇形児が生まれ、米軍兵士はベトナム・シンドロームと呼ばれるPTSD(心的外傷後ストレス障害)に悩まされ、これまでの戦争には見られなかった課題を生んだ。

 昭和50年4月30日、南ベトナムの全面降伏により首都サイゴン(現在のホーチミン)が陥落してベトナム戦争は終結した。1年後に南北統一選挙が実施され、南北ベトナムを統一したベトナム社会主義共和国が誕生した。

 ベトナムの歴史はまさに植民地の歴史であった。秦の始皇帝の時代から約1000年にわたり中国に支配され、次にフランスの植民地として約100年間支配され、その間、ベトナムは仏領インドシナと呼ばれていた。昭和15年に日本軍が進駐したが、日本が連合国に無条件降伏すると、昭和20年9月2日、ホーチミンはハノイを首都にベトナム民主共和国(北ベトナム)の独立を宣言し、共産主義による国造りを始めた。

 しかしフランスはベトナムの独立を認めず、やがて北ベトナムとのインドシナ戦争(第1次)が始まる。ホーチミンは約9年間、フランス軍と戦い、昭和29年にディエン・ビエン・フーでフランス軍を大敗させ、フランスはベトナムから撤退することになった。中国とソ連は北ベトナムを承認し、同年7月のジュネーブ協定により、北緯17度線を境にベトナムは南北に分断された。

 昭和30年10月、南ベトナムは、米国を後ろ盾にゴ・ジン・ジェムが大統領に就任して、南ベトナム共和国を建国した。米ソの冷戦下、米国は南ベトナムに経済援助を行い、軍事顧問団を派遣して南ベトナムを支援した。ところが南ベトナムの民衆の中にゴ政権に反発する者が多く、昭和35年12月には南ベトナム国内に解放民族戦線(ベトコン)が結成された。北ベトナムの援助を受けたベトコンは、米国と南政府軍に宣戦布告して内戦となった。この結果、ベトナムは北を支援するソ連や中国などの社会主義国と、南を支援する米国との政治的かつ戦略的代理戦争となった。

 昭和39年8月、北ベトナムのトンキン湾で、米軍の駆逐艦が北ベトナムから魚雷攻撃を受けたとするトンキン湾事件が発生。ジョンソン米大統領は報復を命令し、空母から飛び立った爆撃機が初めて北ベトナムを空爆。昭和40年3月、米海兵隊が南ベトナムのダナンに上陸、米軍が戦争に直接介入した。ベトナム戦争は、アイゼンハワー、ケネディ、ジョンソン、ニクソンと4代の米大統領が関与し、最大54万人の米軍兵士が派遣された。

 ベトナム戦争の特徴は、戦争に前線がなかったことである。北緯17度線の国境はあったが、戦闘は南ベトナム領内の各地で行われた。このようにベトコンが南ベトナムでゲリラ戦を展開する内戦が主で、ベトコンは正面切った戦いをさけ、地の利を生かしたゲリラ戦略で戦った。ベトナムを覆うジャングルが戦争の舞台となり、ベトコンは地形を利用して戦いを仕掛けた。

 当時、徴兵制だった米国では、多くの青年たちが戦場で倒れ、長引く戦いに厭戦(えんせん)気分が広がった。仲間を失った若者は、ウッドストックに代表される反戦運動を繰り広げていった。米国にとってのベトナム戦争は、それまでの輝かしい自由と民主主義を守る戦いではなく、面子(めんつ)を賭けた戦争に変わり、大義なき戦争、終わりなき戦いとなった。アメリカでは戦争による精神不安、麻薬にむしばまれる若者が急増し、ベトナム反戦運動はアメリカだけでなく、世界各国に波及し、日本でも学生を中心に反戦運動が盛り上がっていった。

 戦争でアメリカ経済は疲弊し、世界通貨としてのドルの価値が低下し、ドルを基軸とした西側の経済体制は根底から崩れ、昭和46年12月、ニクソン大統領は金とドルの交換を停止した(ニクソン・ショック)。

 昭和48年1月、パリ和平会談で停戦が成立。米軍は南ベトナムから撤退したが、その後も南ベトナムに軍事援助を続けた。しかし次第に南ベトナム政府軍の支配地域が狭まり、南ベトナムに最後の時が迫ってきた。

 昭和50年4月30日、北ベトナム軍・解放勢力は、南ベトナムの首都サイゴンを総攻撃、南ベトナム軍は総崩れとなった。南ベトナムでは皆殺しの流言により、多くのベトナム市民が周辺地域に流出。米国の保護を求めて米国大使館に人々は殺到したが、すでに同大使館は撤収していた。北ベトナムの戦車部隊が大統領官邸に突入、大統領ら高官は無条件降伏、南ベトナム政府は崩壊した。ホーチミンはすでに死去していたが、ベトナム人による民族統一が達成されたのである。

 ベトナム戦争は南北ベトナムで120万人以上の戦死者を出し、米軍の戦死者5万6697人、戦傷者30万6653人で戦費は42兆円に上った。韓国も31万人の兵を派遣し、5000人が戦死している。米国は歴史上初の敗戦という挫折を味わった。

 米軍はジャングルに隠れている北側の補給路を見つけるため、7500万リットルもの枯れ葉剤を空中散布した。散布から24時間で木々の葉は変色し、1カ月で落葉したが、新芽が生まれるため枯れ葉剤散布は繰り返された。散布面積は南ベトナムのジャングルの20%、約170万ヘクタールに及んだ。これは四国の面積に匹敵する広さである。

 ダイオキシンを含む枯れ葉剤は、ベトナムに大きな後遺症を残した。枯れ葉剤散布地区の奇形出産率は通常の約13倍に達し、米軍の帰還兵やその家族も、がんの発症や子どもの身体障害に悩まされた。今でも枯れ葉剤の後遺症で多くの人々が苦しんでいる。

 ベトナム戦争を体験した米軍兵士はベトナム・シンドローム(PTSD:心的外傷後ストレス障害)に陥り、精神的ダメージを引きずることになる。米国の若き兵士たちは、大義なき戦争の犠牲者となり、戦争が終わっても容易に社会に復帰できず、正義の米国は自信の喪失とモラルの荒廃に悩むことになる。

 ベトナムは30年かけて民族独立を勝ち取ったが、サイゴン陥落で有頂天になった北ベトナムの指導者は、南ベトナムに急激な社会主義化を求め混乱を招いた。隣国のカンボジアもその余波を受け、ポル・ポトによる極端な社会主義政権が誕生し、多数の市民を農村に移し100万人以上の犠牲者を出した。

 ベトナムは後に社会主義型市場経済を目指す「ドイモイ(刷新)政策」を採用した。ドイモイ政策とはロシアや中国と同じ市場主義経済である。中国と同じようにベトナムの国会議員の9割は共産党員であるが、平和であれば何よりである。