クロネコヤマトの宅急便

 昭和51年1月、ヤマト運輸は日本で初めて「宅急便」を始めた。クロネコ親子のマークをつけ「電話1本で玄関から玄関へ」、この発想は消費者物流の大革命といえた。
 大正8年に創業したヤマト運輸は運輸業界の中では歴史ある会社だった。関東一円の運送免許を持ち、三越百貨店などの大口企業を相手に「大和便」の名前で営業していた。当時、高速道路はなく、トラックの性能や積載量が劣っていたためヤマト運輸の営業は関東に限定され、遠距離輸送や小口の荷物は国鉄や郵便局が扱っていた。
 昭和40年を過ぎると、東京オリンピックの開催を前に東名、名神などの高速道路が開通し、西濃運輸や福山通運などの関西勢が長距離輸送に乗り出してきた。トラックの性能は向上し、時間的にも輸送量も国鉄の優位性はくずれ、国内の輸送環境は激変した。この長距離トラック便の流れにヤマト運輸は乗り遅れ、他社に荷物を奪われ、経営は悪化し赤字に転落した。昭和48年のオイルショックで経済が低迷すると、運輸業界は企業の荷物を奪い合い、ヤマト運輸はその競争に負けていた。
 昭和48年、2代目社長になった小倉昌男は常務の都築幹彦とともに、家庭から出る小口荷物に勝負をかけることにした。大口貨物が全盛の時代に、家庭から出る小口貨物を扱うことは常識はずれの無謀な賭けであった。役員たちは大口貨物のうま味を捨てきれずに猛反対だった。「宅急便と大口貨物を平行して行い、宅急便の目途が立ったら大口を止める」とする意見が大部分であった。
 ところが小倉昌男は「牛丼の吉野」の成功をみて、メニューを少なくして合理化をはかれば成功すると確信していた。牛丼の吉野のメニューは、ラーメンやカツ丼は扱わず牛丼だけだった。そこで小倉昌男が出したメニューは「家庭から送りたい物を送る」という一点であった。荷物はLとMサイズにして、値段は配送のブロック別に分ける簡単な設定にした。その当時、家庭から家庭ヘ荷物を届ける専門の運送業者はなかった。小口の貨物を送る場合には、郵便小包や鉄道貨物の利用であったが、重量が軽いほど、重さ当たりの運賃が高くなる設定だった。電話1本で家庭まで集荷に来てくれて、しかも全国すぐに配送する宅急便の発想は運送業の常識を越えていた。宅急便の事業が軌道に乗るかどうか、初めての試みに採算の見通しもつかなかった。
 当時、郵便局の荷物取扱量は1億3000万個、国鉄の小荷物が8000万個だった。つまり家庭から出る荷物は2億万個で、2億万個にどこまで食い込めるか、採算はとれるのか、まさに未知との勝負であった。小倉昌男は消費者の立場に立ってサービスを重視すれば、郵便局や国鉄に勝てる確信があった。
 会社幹部はこの事業を成功させるため労働組合と交渉を繰り返した。会社の職員は5000人、その半分以上がドライバーだった。ドライバーはそれまで松下電器のテレビや洗濯機を運んでいた。それが個々の家庭に集荷に行き、営業所からまた個々の家庭に配達するのである。多くのドライバーは、この未知の方法に疑問を持った。ドライバーの仕事は歩合制だったので、個人の荷物では給料が上がらないと嫌がっていた。ここでヤマト運輸は「三越などの大口荷物取引はすべて断り」と背水の陣を敷き、ドライバーを説得した。社員の意識を変えるための挑戦が始まった。
 昭和51年1月20日、クロネコヤマトの宅急便がスタートした。最初の日の取り扱い荷物は2個だけであったが、2月には8600個、12月までに170万個を扱い、その便利さが口コミで広がっていった。当初は関東1都6県だけだったが、同年12月には半数の都道府県をカバーした。そして昭和58年には1億個、平成7年には6億個を突破した。このように宅急便は快進撃をとげた。ドライバーはお客さんが喜ぶ姿に接し、同時に利用者にとっても宅急便は新鮮な驚きだった。宅急便に慣れ親しんだ現世代にとっては理解しにくいだろうが、それは運送業のサービス革命であった。
 このように順調にスタートしたクロネコヤマトに大きな問題が立ちふさがった。それは営業免許と路線免許という国の認可制度だった。トラック運送事業は利用する道路ごとに運輸省から免許をもらっていた。ヤマト運輸は運輸省と交渉したが、運輸省は地元業者の反対を理由になかなか免許を出さなかった。運輸省は規制によって業界をコントロールしたかったのである。昭和55年にトラック輸送での路線免許を申請したが運輸省は認めなかった。その時点で郵便小包は年間1億5000万個、宅配便は1億9000万個に達していた。そのため免許のいらない軽自動車の営業を強いられ、ヤマト運輸は運輸大臣を相手に行政訴訟を起こすことになった。
 四国と福井県の免許を取得するのに15年かかり、昭和63年に沖縄県の免許を得て、すべての都道府県で営業ができるようになった。過疎地を含め全国どこへでも翌日荷物が着くシステムができあがった。
 昭和58年にはスキー宅急便、59年にはゴルフ宅急便を開始。さらに中元、歳暮、母の目などのギフト市場にも参入、昭和63年にはクール宅急便を始めた。クール宅急便は「夏に生ものを送りたい」という消費者の声に答えたものだった。消費者の立場に立ったクール宅急便の売上は年間2割ずつ増え、そのため全国の海の幸、山の幸が手軽に届くようになった。
 クール宅急便は消費者だけでなく、全国各地の地場産業にも貢献した。地方の生鮮物が都市の消費者へ届けられ、地方の産物が地場産業として活気づいた。また逆に過疎地にいても暮らせるようになった。
 さらにクレジットカードの配達などで郵政省(現総務省)と「信書か否か」で対立するなど、徹底して官の規制と戦い、小倉昌男さんは「ミスター規制緩和」とよばれた。
 宅急便の成功は、常に挑戦し続けたこと、消費者の目線で事業を判断したこと、目先の利益ではなく全体の利益を考えたこと、そして社員のやる気を大切にしたことであった。宅急便は消費者が求めるニーズをみごとに掘り起こした。ちなみに宅急便はクロネコヤマトの商標で、他社は宅配便と呼ばれている。
 ヤマト運輸元会長の小倉昌男は、自分が決めた定年制にしたがい、63歳で会社をやめた。そして私財(46億円)を投じて、障害者を支援するヤマト福祉財団を設立した。ヤマト福祉財団は「障害者に施すという発想ではなく、自立を支援し利益を出させる」という従来の考えとは違う支援であった。小倉昌男は福祉の仕事に専念したが、現役時代に腎臓癌を患い、平成15年6月30日、腎不全のため80歳で亡くなった。不可能を可能にし、新しい時代を切り開いた経営者だった。