カレン裁判

カレン裁判 昭和51年(1976年)

 昭和51年4月1日、朝日新聞はカレンさんの尊厳死裁判について報じた。カレン事件とは米国で尊厳死をめぐって争われた裁判で、この新聞記事で「尊厳死」という言葉が用いられ、やがて普及するようになった。尊厳死とは死期が迫っているときに、無意味な延命治療を中止することである。

 カレン・アン・クインラン嬢(21)は友人のパーティーで酒を飲んだ後、精神安定剤を服用して昏睡状態に陥った。呼吸が停止したため、人工呼吸器が取り付けられ、チューブで流動食を送り込むことでカレンの生命は辛うじて保たれていた。3カ月後、両親は「機械の力で惨めに生かされるより、厳かに死なせてやりたい」と主張したが、医師団が反対した。米国ではカトリックの考えから「積極的安楽死は、神の意思に反する」との反発が強かったのである。それまでは、医師と家族とのひそかな合意のもとで、延命治療の中止は行われていたが、延命中止に法的根拠がないために、延命中止は厄介な問題を引き起こす可能性があった。

 両親はニュージャージー州の高等裁判所に「美と尊厳をもって死ぬ権利を認めてほしい」と提訴した。だが裁判所は「呼吸器を外すかどうかは主治医に任せるべきで、患者が自分の意思を決定できない場合は、患者は生き続けることを望むのが社会通念」として、尊厳死を認めなかった。

 両親は訴えが却下されたため、州最高裁判所に上告。最高裁は「人命尊重の大原則よりも、死を選ぶ個人の権利が優先されるべきで、治療を続けても回復の見込みがない場合は、人工呼吸器を止めてよい」との逆転判決を下した。最高裁は父親を後見人にして、人工呼吸器を外す医師を選べる権利を両親に与えたのである。

 それまでの日本は、安楽死や尊厳死を考える必要はなかった。それは自宅で死を迎える人が病院より多かったからである。ところが医学の進歩により、呼吸ができなくても、意識がなくても、食事を取れなくても、心臓を動かすことが可能になった。つまり自宅での尊厳死が、病院での積極治療となった。

 病院では、心臓マッサージ、気管内挿管、徐細動、強心剤の注射は、「死の4点セット」といわれ、死を前に常時行われるようになった。患者を回復させるための救命処置が、死が確実な患者にも行われた。この救命医療の進歩が結果的に延命治療となり、いたずらに死期を延ばし、人間としての尊厳を奪うことになった。植物状態でも、脳死状態でも生命を保つようになったのである。

 「死は医療の敗北」とする考えから、すべての患者に積極的治療を行う医師がいる。医師とっては何も考えずに「死の4点セット」を行う方が精神的に楽であった。一方、不治の病であっても、「できるだけのことをお願いします」と言う家族が多い。無駄な治療かもしれないが、治療の中止を言い出すことは、ある意味では身内を見殺しにする行為であった。そのようなことから、結局、本人の尊厳を奪う場合が多かった。

 人間は単なる生物ではなく、人格を持った生存で、肉体ではなく精神的存在のはずである。そのため救命医療の進歩とともに、尊厳死、安楽死の是非が逆に問われてきた。たくさんのチューブにつながれた「スパゲティ症候群」にどれだけの意味があるのか、本人にとって延命治療が本当に幸せなのか、という葛藤があった。

 本来、自分の最後の生き様は、医師や家族が決めるのではなく、本人が決めるものである。しかし自己決定権が与えられているのに、生前にその意思を決めている患者はまれである。この「人間としての尊厳ある死」という新たな概念に対し、多くの人たちは同意しても、国民的合意には至っていない。

 昭和50年6月、日本安楽死協会が発足。昭和58年に日本尊厳死協会と名称を変え、尊厳死を選択する場合は、自分の意思を証明する「事前指定書リビング・ウイル」を書き、延命治療の拒否を書きとどめておくことを提唱している。誰でも死ぬ運命にあるのだから、死を前にして事前指定書を残すべきだとしているが、そのような患者は極めてまれである。

 死生観には宗教が大きく関与しており、キリスト教は死を単なる通過点ととらえているが、日本人は生死を自然なものとしている。また死をタブー視して、死を考えずにいる。

 日本でもカレン事件が報道され、安楽死、尊厳死は問題視されたが、結論を出すまでの議論には至っていない。またカレン事件のように、生命維持装置を外すことが裁判に持ち込まれたことはない。昭和55年、日本安楽死協会の理事が「安楽死の意思表示の有効性」を裁判所に訴えた。しかし裁判所は、「裁判は法律上の争訟が存在する場合に限られ、安楽死の意思表示の有効性は争訟に当たらない」として門前払いにした。

 平成13年4月、積極的安楽死を認める法律がオランダで成立した。「患者の明確な意思表示があり、医師と患者の十分な信頼関係があり、患者の耐え難い苦痛があり、治る見込みがない場合」には安楽死が認められるようになった。この法律は16歳以上の患者が対象になっているが、それ以下の年齢でも親権者の同意があれば認められる。

 オランダでは安楽死が法的に認められているが、その背景には昭和46年に起きたポストマ事件があった。ポストマ事件とは、脳出血の後遺症に苦しみ、何度も自殺を図った母親に、娘である女医のトルース・ポストマが致死量のモルヒネを注射して死なせた事件である。ポストマは殺人罪で起訴されたが、執行猶予付きの禁固1週間の判決であった。この無罪に等しい判決がきっかけになり、肉体的苦痛に悩む患者を安楽死させる法律が実現した。平成7年、オランダの「安楽死による死亡数は全体の2.7%」に達している。